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『嫌い』という感情を考えることで、『嫌い』を楽しもうぜ。

つい先日、Twitterでこんなハッシュタグがタイムラインに流れてきた。

「#いいねの数だけ嫌いな映画を言ってフォロワーに嫌われる」

映画が好きで、レビューなんかをnoteで書いたり、Youtubeで語ったりしておる自分なのですが、その関連でツイッターではこういった映画に関するハッシュタグが時々流れてくる。

このテーマに沿って多くの人が、自分の嫌いな作品を挙げたり、それに対する反論や、このタグ自体への批判などなど、色々な言葉が飛び交う中、僕も一家言あったのでこう記しました。

このツイートの後半部分の「何かを嫌うという感情を好きと同等に大切にすると、嫌いという感情の扱いが変わります」ってところの話をしたくて、今日はnoteを書こうと思います。

このタグを見たとき、頭の中にいくつもの個人的に嫌いな作品が思い浮かびました。有名な作品だけでもタイトルを羅列しておきますと……

『バック・トゥ・ザ・フューチャー』、『アバター』、『トップガン』(マーヴェリックはクソ最高でした!)、『竜とそばかすの姫』、『ミッドナイト・スワン』、ウィル・スミスが出てる版『スーサイド・スクワッド』、『ドクター・ストレンジ(最初の奴)』、クリストファー・ノーランの『ダンケルク』以外の作品のほとんど等々……。

まぁ自身が観てきた作品の中でも、色んな人が好き、あるいは有名で感動を覚えたであろう作品をチョイスしておりますが、ざっとこんな感じです。

しかし、嫌いだからといって「思い入れがないか?」と言われたら、実はそんなことは全然ないのです。

上記の作品は、大体どれもYoutubeや過去のブログなんかで語ったもので、何が理由で「嫌い」なのかを考えあげ、説明し、僕なりの価値観、倫理観において「嫌い」という感情を味わい尽くした作品群でもあります。

僕は「嫌い」という感情は「好き」と同等に扱いたいと常々思っておりまして、それはなぜかというと「嫌い」という感情には自分という存在が、実は如実に表れると思っているからです。

「好き」という感情には興奮や嬉々が多分に含まれ、それにはある種の共感意識や共有欲(この気持ちをシェアしたい)という多幸感があり、SNSというツールがそれを現代は安易に助長するような現状があります。

対して「嫌い」には不愉快さと不快が含まれており、感情はそれを見たくない、感じたくない、距離を取ろうとする、というような嫌悪からくる精神的な離脱、あるいは防衛があるように感じます。

そのような心の作用があることは何となく分かると思いますが、そこに「なぜ?」をブチ込む人はあまり多くないように感じます。

この「なぜ?」という意識があれば、嫌いなった作品に対しての自分という存在と、その感性をさらに面白くしてくれると思うのです。

■「なぜ?」この作品が嫌いなのかを考える。

あなたが嫌いになった作品には、必ず理由があるはずです。

登場人物がワガママで気に入らない、作品の世界観や設定に整合性がない、キャラクターの人物像に共感できない、何を表現したいのか分からない、主人公が可哀想過ぎる……etc

理由は理屈っぽいものから、感情的なものまで様々でしょうが、必ず何らかの理由があるはずです。

その理由を探るために作品を観ながら感じる自分の心に「なぜ?」を突きつけてみましょう。それは好きな作品と嫌いな作品の対比を考えてみることで浮き彫りになります。

好きな作品の中で嫌いな作品とジャンルや物語、キャスティング、設定や世界観、テーマ、などが近い作品があるかと思います。それらを比較してみて何を好み、何を嫌うのか自分で思考してみましょう。

一例を挙げますが、僕の場合トム・クルーズ主演の大ヒット作『トップガン』が大嫌いです。

今作でトムの演じる主人公マーヴェリックは、天才戦闘機パイロットの素質がありますが、自信過剰で、傲慢な上に協調性のない人物です。そんな彼と長年相棒のグースは彼の起こした事故で命を落としますが、彼はそれに責任を感じつつも、決して他者に頼ったり謙虚さを表に出しません、最大のライバルであるアイスマン(ヴァル・キルマー)でさえも不器用ながら彼を気遣いますが、表向きには無視し、それに応えようとしません。

さらに同僚には「お前、臭いぞ」などという酷い文句を言ったと思ったら、汗だく半裸でビーチバレーしたあと、仲良くなった女教官のおうちデートにいくも、遅刻した挙句に汗だく半裸バレーから直行のため家に入るやいなや「シャワー貸して」などとほざく始末(お前も汗臭ぇんだよ!)。

トム、最低である。

しかしその続編である『トップガン:マーヴェリック』では、このマーヴェリックは最高の人物へと変貌しています(当社比)。

彼は老いてなおも現役の戦闘機パイロットの教官として先頭に立ち、後輩を励まし、教育し、成長させてゆく。そして人生の岐路に迷い苦悩するとき、かつてのライバルであるアイスマンの言葉に頼る姿は、謙虚さを持ち備えた立派な教育者であり、人格者の姿に変わっていた(最後に美味しいトコロは全部持ってきましたが 笑 )。

この対比から、一作目の『トップガン』には自分の弱さを自認し、受け入れる姿勢が主人公になく、一方続編『〜マーヴェリック』には男として成熟した姿があり、そこには主人公の描かれぬ人生の遍歴を感じ取れます。

こういった感情の差から、僕は映画に登場する人物には、善悪は別にして、心の葛藤や人間性の変化といったものを期待している節が見えてきます。

これはあくまで分かりやすい一例なので、全てがそうだとは言い切れませんが、こうした対比によって自分という人間性が映画を通して、新たにフィードバックされます。

こうして作品そのもを観るという一方通行な視点から、その作品から得た感情を踏まえて自分を観る、観察することから新たな楽しみが生まれてくるのだと思います。

◾️自身の人生に照らし合わせる

ここまでは映画の好き嫌いから見えてくる自身の人間性の話でしたが、次はもう少し自分メインの話をしましょう。

あなたには「嫌いな人」はいますか?
職場で、学校で、趣味の集まりで、色々な人が集まる場で対人関係の好き嫌い、または印象の良さ悪さは生じるものです。

さっき映画で例えたように、僕はこの人に対しての「嫌い」もよく考えます。嫌いのな人のことを色々と心の中で弄りまわして、その人の何が「嫌い」なのか、何が「不快」なのかを、ウジウジと思考します。

これも映画と同様に、こうすることで見えてくる自分の姿があるからです。

僕の経験上なので、皆さんに当てはまるかは分かりませんが、多くの場合、嫌いな人の "何が嫌いなのか" という要素を考えていくと、多かれ少なかれその嫌いな部分は、己の心の中にあることに気づいたりします。

それもそのはずで、嫌いだという感情が湧き上がるということは、その嫌悪した状態や態度に対して、自分は理解ができ、その反応として負の面で共感するから「嫌える」のです。

そして分かるということは、自分の精神の中の"何か"を投影しているからに、僕はほかならないと思います。

加えて、世の中に存在する全ての他人。というより「他人象」は概ね己の中にある偏見と誤認によって模られ、創りだされているものです。

僕自身が目の当たりにしている嫌いなAさんは、あくまで僕の中にあるAさん像であり、それ自身は僕の心が作り出し、同時に住まわせている印象に過ぎません。その心の中に宿らせた印象が、どれほど本物のAさん足り得るのか。考えるよりも明らかだとは思いませんか?

自分の心が作り出したそのAさんの姿には、明らかに、あるいは多分に、自分の中にある、不快、嫌悪、ネガティブ思考が混入しているだろうかと、またこうであって欲しい、こういう人間なはずだ、という願いが込められていることを、僕は自身に突き付けています。

そうすることで、自身の心の中にいかに卑劣な側面があり、愚鈍な根性が根ざしているのかを痛感します。

映画にしても、他人にしても「嫌い」という感情を持ったら、ちょっと立ち止まってみてください。

それは実は自分という存在を考える、見つめ直すチャンスなのではないでしょうか?そしてそれをすることで、新たな自分を発見でき、それは「嫌い」という感情の新しい利用法に繋がるのではないかと思うのです。

「嫌い」は辛いから、見ずにいよう、蓋をしよう。ではなく、思い切ってその沼に、ドブに、首の根元まで「嫌い」という感情にどっぷり使ってみると、案外面白いことになるかもしれませんよ!

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