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若き日の「若し」、中年の「若し」、若者への「若し」

「もう若くない」

36歳である自分に素直にそう思う。
そんな僕に対して「ナニ言ってんだお前!まだまだ若ぇじゃねーか!」と罵声も飛んでくるだろう。

年長者に「まだ若いじゃないか」と言われることに、20代の頃には焦りと安心を感じ、そしてその言葉に甘えてはならないと危機感も抱いていた。

その言葉を鵜呑みにして「まだ俺は若いから大丈夫」という意味のない自尊心が、自らの大したことのない魂を更に腐らせるのではないかと、ヒリついていた。

「時間はボヤボヤしてたらあっという間に過ぎ去っていき、人生を奪う」そんなふうなどこかで聞き覚えのある言葉をインプットした青年の僕は、漠然とその恐怖だけが先行した状態で生きていた。そして今もその呪いは解けない。

なので36歳になり、なおのことこの時間に対するひっ迫感は増している。

おそらくだが、同年代のマトモに社会人になった人々と比べると、スペックはかなり悪いだろう。

それは社会的な地位や年収のことにほかならないが、未だにひとりの生活を支えるのが精一杯である。

しかし、この自らの体たらくに恥を覚え、憤慨し、一念発起で彼らと同じ世界で競争したいかと言われれば、これが全く思わないだから困りものだ。

こんな自分ですが、人生は思いのほか楽しんでいるのも明らかな事実である。

いやむしろ、その競争の枠内にそもそもいない生き方しかしなかったし、それを変えられない性分だということも承知している。

なので、今までの人生を振り返っても、意外に時間を無駄にしたと思っていない。

全部の自分の選択で、全部自分の責任である。

その都度その瞬間の選択は、そのタイミングでの最良だったと感じているし、思いかえして「こうすればよかった」と思っても、当時そうなれなかったのだから、その気づきができただけ成長したってことで良いんじゃねーか?と思う。

しかし時間は経つ。
年長者からの「若いね」という自分に向けられる言葉には、相変わらずヒリつきを覚えるが、逆にいま自分より若い人に「若いね」などと言う(つい流れで言ってしまいやすいワードなんだよなコレ)と、自分のなかに何だか優しい気持ちが湧くことに気づく。

若いという特権、時間、柔軟な思考、これから経験を蓄えられるという可能性、その全てに羨ましさに似た気持ちを覚えながらも、そんな彼らを見守りたいと思う感覚も芽生えたりもしている。

心のお節介じじい化である。

たぶんこの辺。
この36歳辺りというのはちょうど中間なんだろうなぁと体感的に感じる。
ということは、もしかしたら僕より年長者の僕に対する「若いね」にも今僕自身が感じている"心のお節介じじい化"のような感覚が芽生えていたりするのだろうか?

まぁそんなのは性格の問題だし、そうだったら良いなという希望的観測に過ぎないんだけど……。

だけどそうだと良いなと思った以上、僕はそういうじじいになりたいと切に思うね。そういう感情で僕より若い人と関わりたいし、僕という存在との間にある世界に関わりたいね。

なんて思いつつも、結局は自分最優先でどうせこの先も"最良の選択"をして失敗し続けて、至極個人的に良い人生を歩む気がするな。

絶対そうだ!

ヨシ!寝る!

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