「テロに屈さない」絶望地帯日本の問題を考えてみた。
今回はいつになく大真面目に、時事問題を書きました。先日起きた岸田首相への爆弾投げつけ騒動です。
「私は断じてテロに屈しません!」という政治家の皆さんは多分、映画とかドラマでそういう政治家キャラクターの姿勢を見て「素晴らしい!」と感じ、自分もそのキャラ同様にその役をカッコ良く演じれるチャンスぐらいにしか安倍銃撃〜岸田爆弾騒ぎを考えてない気がする(安倍銃撃はテロというより、統一教会への憂さ晴らしだが)。
テロが社会悪なことは全国民承知なのは明らかなはずで、テロに屈しない姿勢を公権力が取ることは100%正しい。
それでもその中から行動を起こす者が現れ、その動機と背景原因を追求することの必然性を封印するような言説を平然と公言する姿勢を崩さない一部の方々には、その楽観さと想像力の無さに脱帽である。
公権力がテロに屈しないことを主張すると共に、その原因究明と犯人の辿った半生を分析し、思考していくことは、どちらの姿勢も正しく必要で、またそれは同時進行で社会へフィードバックされなければならない。
なぜならこれはどこで起きてもおかしくない事象であり、それはあなたの近くでテロが起こり、凶弾や爆風に巻き込まれるかもしれないという物理的な問題であると同時に、それ以上に、誰の身内からも山上や木村といった行動者が現れるかもしれないからだ。
日本の立派な政治家先生はこの点を見過ごしているように思う。
政治家(主に自民党議員)という仕事が国を動かせる立場にいるということは、当然ながら今の悪政を正す(或いは幇助する)ことができる位置にいるということであり、その最も近しい家族、もしくは親類から国政への不満を抱き行動を起こす者が出る可能性だって充分にある。
かつて自分の息子が引き篭もっていた挙句、社会へ暴力的な行動を起こさないかと不安に駆られ、息子を殺した元官僚もいた。
この事件に関しても、家庭内での教育関係、母子関係が根深くその原因にあり、そこから社会生活からの離脱と孤独化からくる精神の不安定がさらに、家族間の亀裂と断絶を助長した。
この一件では父親が息子を殺すという形で、個人の殺人事件として事件は仕舞えているが、エリート家庭で育つ者がその家庭環境ならではの重圧から、皆幸せではないという典型例でもある(現時点で木村容疑者の詳細な家庭環境は不明だが)。
だとするならば、こういったある種のいつでも爆発しかねないガスの溜まり切った個人は無数にいる可能性は少なくなく、それは国政に殉じている政治家大先生の足元にも存在するだろう。
寧ろそこから、今回の事件を起こすような行動者が出ても違和感はない。
ここでは敢えて最悪な例を挙げるが、自分をエリートへ仕立てようと、教育にも生活にもプレッシャーを与え続け、自ら抱いた夢も諦めさせられ、親の築いたレールのみを走らされる子供が、一度社会へ出て、何かしらの失敗と挫折を味わい、その先にある絶望に跪き、立ち上がれなかった場合(そういえば逮捕された三浦瑠麗の旦那の家庭環境も相当エリート意識が高い異常な家庭環境だったな)。
更にその子供を助けるべき親が、手を差し伸べず、エリートではないからと世間体の中で切り離したとき、その子供が受けた不条理や無情は誰からもたらされたのだと考えるでしょうか?、そんな半生の中で蓄積した怒りや反感は誰へと向けられるでしょうか?、そしてそんな子供が大人になるまで生きてきた、見てきた世界はどのようなものでしょうか?
そんな子供が成人し、自分の生きてきた世界へ絶望したとき、その個人の絶望の中に「テロは最大の社会悪」だとか「殺人は違法行為だ」とか、誰もが知っている法治国家の当たり前に、何かの価値があるでしょうか?
このことに偉い国会議員さんはもっと気づいてほしい。個人の絶望がいかに簡単に社会秩序を破壊し得るのかという危険性と、それは誰しもが抱きかねないものであると同時に、そんな人物は自分の身内からも出るかもしれないという、身近な問題として考えることから始めてほしい。
SNSのアカウントの背後には生身の人間がいるのが当然のように、国民や市民、納税者という一括りにされた集団の中には、様々な人生を抱えた個人が存在し、あなた(人を束ね、組織を運営する立場にある全ての人)に対して、どのような眼差しが注がれているかを考えてほしい。
彼らの敬慕の眼差しも、いつの間にか眉間に皺がより、いつしか手には手製の銃や爆弾を持って、彼(あるいは彼女)は、あなたの目の前に現れるかもしれない。
それはあなたがよく知る、いや、かつて知っていた最も近しい誰かかもしれない。
最後に景気付けというわけでもないですが、この曲を紹介して、終わります。
在日ファンク/爆弾こわい