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地域共生は多分ティラミスくらいにおいしい -僕なりの”地域共生”的な場のつくり方現在地-

”地域共生”?なにそれおいしいの?
地域共生社会とは、制度・分野ごとの『縦割り』や「支え手」「受け手」という関係を超えて、
地域住民や地域の多様な主体が参画し、人と人、人と資源が世代や分野を超えてつながることで、
住民一人ひとりの暮らしと生きがい、地域をともに創っていく社会を指しています。
地域共生社会のポータルサイト

ライフワークで地域共生的な味を味わっている身としては、ティラミスくらいにおいしいと思う。甘いけど苦さもあるから個人的にちょうどいい。

とまぁ久々に書く気になったnoteで、そんな地域共生的な味がティラミスくらいに感じる理由を綴ってみたい。

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『自分自身がそこに居てもいいと思える場』

地域共生社会とは、
・関係性を越える。
・多様な主体が参画して世代や分野を超える。
・つながる。
・暮らしや生きがい、地域をともに創る。

こういうことらしい。うーん、この説明だどなんだか手触り感のない世界観だと感じてしまう。
ちょっと整理してみたいなと思った。
きっと手触り感はあるから。

まず僕なりの”地域共生”とは。
きっとこんなキーワードが肝なのかなと思っている。

『自分自身がそこに居てもいいと思える場』

あらゆる人一人ひとりが、自分自身が地域のその場に居てもいいと感じられるかどうかが、社会の手触り感を感じることのできるスタートと思っていて。
「地域に自分のことを知っている人がいて、自分も知っている人がいる」とか。知っている人が多様だと共生っぽい雰囲気があるのかな?とか。そんなイメージでしょうか?詳しい人。

誰かがいる場に自分も居るという状況で自分という人を認知してもらうには、誰かとの距離感にも左右されるが、ある程度の自己開示も必要。
その前に自己開示をしたいと思える雰囲気があるかも重要になるんだけど、そんな場ってどこかにあるのかな?

てなると、地域共生社会には、どんな人でも自己開示・自己表現できる場が不可欠なのかもしれない….?

あ!

やってきたことかも。
結果的に、さまざまな人が自己開示・自己表現している場を育んできている場についてまとめてみようかな。

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2つのタイプの場

私松村が理事長を務める一般社団法人Mi-Projectは、3つの場づくり(コミュニティ)活動を循環されることを意識して活動している非営利型(というかほぼボランティア)で医療福祉の専門職(30代が多い)やケアラー経験者などで構成される団体だ。

一番大事にしている思いは、大学生から50代くらいの世代が地域に参加するきっかけを創ること。
これまで【まつど暮らしの保健室】を中心に展開し、
昨年から始まった【鉄塔の下の倉庫】が活発な活動となり、今では様々な風景が生まれている。

【まつど暮らしの保健室】【鉄塔の下の倉庫】
今はこの2つの場のコンセプトが交わることが大きな価値を生むことを経験している。


【まつど暮らしの保健室】は、定期的に他団体さんの場所を使わせていただきつつ、共に運営する協働型のスタイルを選択している。

すでに地域に場所をもつ団体さんと協働して場を運営することを、僕は”地域に溶け込む”と表現しているが、医療福祉の専門職がその場にいることの価値は、知識を提供すること以上に、ケア(=気にかける)の意識を醸成させるような雰囲気を醸し出す(ケアのアクセント)ことだと思う。

そのためには、たとえ医療福祉の専門職であったとしても、気負わずに一人の人として参加する姿勢が求められる。
おそらくここは医療福祉の専門職にとってアンラーニングが必要だと感じるし、知ること以上に場に居てもらうことで学んでいける場に【まつど暮らしの保健室】はなっている。

【まつど暮らしの保健室】を利用する(参加者・ボランティア)地域住民は多様で、高齢者だと健康意識の高い方から健康の不安をお話ししたい方、介護に不安を抱えている方が多い。そのほか、ボランティアを体験したい大学生や社会人、就労に向けて自信をつけるためにボランティアをしたい成人の方、ケアの経験がある方。
それぞれに自らの健康や家族の介護のことをしっかりと相談したい方も居れば、その場に参加することで満足して帰っていく方もいる。

なにかをしなければならないという場ではない。
相談をしなければ参加しちゃいけないのか?とか、
ボランティアとして何かできることを提供しなければならないのか?とかそんなことは求めていない。何をしなくてもいいし、迷惑が掛からなければ何をしてもいい場としている。
相談者が手伝うこともあれば、ボランティアが相談することもある。
役割に徹することはなく、場面によって自己表現を変わることの方が自然ではと常々思っている。

また、その場の目的は多様であっても、その場に関わりしろがあるかの雰囲気を醸し出すことも大事だと思っていて、関わり方を示すことでその場に居る人同士のコミュニケーションにきっかけを創ることも場のオーナーの役割。むしろここが最重要でケアのアクセントを引き出すことにも繋がっていく。この作用を循環させていくことが、M.メイヤロフが述べている相互関係としてのケアリングになっていくのだと個人的には感じている。

以上が【まつど暮らしの保健室】のオーナーである僕の在り方であり、 利用する方々も、オーナーのその在り方を感じて、気負わずに参加する姿勢になっているように感じている。

【まつど暮らしの保健室】の場でその在り方を体現するために、『ポジティヴヘルス』と『バイステックの7原則』、あとはパブリックコミュニティの著書にある『場のオーナー』を参考している。



一方、【鉄塔の下の倉庫】では、”暮らしの試行錯誤”をコンセプトに、倉庫(というか倉庫のある土地をフルに活用している)をいわゆるコミュニティスペースとして運営している。
現在は、異なるタイプの体操教室が3種類と鉄塔の下のスマホセンター、そして駄菓子屋キッチンカーくるくるを定期開催している。いずれもほぼ口コミで来る人が増えている。

コンセプトである”暮らしの試行錯誤”を体現するにあたって、AAR循環が機能していることに最近気づいた(堀田聰子先生の研究で触れられている)

体操もスマホセンターも駄菓子屋キッチンカーくるくるも、始まりの発端は大家さんの勢いある一言で、それに乗っかり、地域の人ではない人(大学生や社会人、企業)を巻き込んでいるのが僕がやっていること。この辺りがAAR循環だと感じる所以。
前提として【鉄塔の下の倉庫】は大家さんの人柄なしでは語れない場であり、大家さんと一緒に面白がれる友人・知人の皆さんのパワーが溢れている。

この循環で、生まれているのはまさに弱いつながり(weak ties)であり、近所でもない人とのつながりを得ている人、大人やこども、若者など世代を超えた空間に価値を感じて通っている方も多い。


コンセプトの交わり

説明してきた【まつど暮らしの保健室】と【鉄塔の下の倉庫】だが、それぞれ違う場所でやってきたのだが、最近では、【まつど暮らしの保健室】を利用している多くの人が【鉄塔の下の倉庫】にも足を運ぶようになった。
つまり、【まつど暮らしの保健室】の雰囲気に馴染んだ人たちが弱いつながりを育むAAR循環が機能している場に交わってきたのだ。

この交わりから生まれた風景こそ、僕が感じた手触り感のある”地域共生”的な風景だった。

鉄塔の下のスマホセンターを利用しにきた【まつど暮らしの保健室】の常連さんとこんな話をした。
その日は駄菓子屋キッチンカーと鉄塔の下のスマホセンターが同日開催された日。
スマホ相談が終わり、放課後の時間になってたくさんの人で溢れてきた時だった。

そこに来ている大勢と話す訳ではないけど、私を知っているあなたとこの場で過ごせるだけでも、私はここに居てもいいんだと感じたと。

知り合いと日曜日にどこかの公園で過ごして眺めている感覚と何が違うのか?と思うかもだが、

限られたコミュニティ(=同属性)で日々生活する人が異属的な場に身を置いていたとしても、【鉄塔の下の倉庫】のAAR循環の立役者である大家さんがまさにその場のオーナーとして、コミュニケーションが豊かな場の雰囲気を作っているため、
何かを話したり相談したりできる元々つながりのある人以外とのコミュニケーションがあることで、また違う弱いつながりに発展していけるかもと期待できるのだ。

この期待感こそが、きっと、自分もその場に居てもいいんだと思えるのだと感じた。

このエピソードがあってから、多様な人がいる空間で自分自身を表現してもいいかもと思えるかが”地域共生”的な場に必要なのだと感じるようになった。
この感覚には僕自身は手触り感があって、ティラミスのようにおいしいと味をしめてしまっている。


2つの場それぞれの入り口(参加のフック)に、気にかけ合えるような関係性(場の在り方)と、AAR循環のようなワクワクする循環(運営スタイル)の交わりが地域共生的な味の甘さと苦さだと語ってきたけど、

一番大事なことは、
場があれば社会とつながれる選択肢にはなるけども、本人や周りの環境を調整・整備していく過程が求められてしまうのも事実。このあたりはソーシャルワークの文脈だろう。

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結局まとまりのない文章になってしまったことをお許しください。
導入で期待させて、よくわからずにここまで読んでしまった人すみません。
これが約3年半ぶりのnoteのブランクだと言い訳をして、終わります・・・



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