優劣と好みは、気づかれぬまま曖昧なバトンタッチを。
優劣の時代は終わった、とふと思う。
優劣は書いて字のごとく、誰かが優れていて誰かが劣っている、何かが優れていて何かが劣っている。そしてその間には、目には見えない”普通”というゼロ地点があるのだろう。つまり、どこかに基準点がある場合に”優劣”がどこからともなくポッと生まれる。比較する対象がいる場合は尚更くっきりと、優劣はそのコントラストを強めるから困る。
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これまでは、どこかの誰かが作った+ーのある物差しが気づけばあったし、基準点も設定されていた。けど、その基準点の違和感に、みんな薄々気づいているんじゃないかな。どうだろう。
+ーのある物差し。
それはたとえば、学校の成績。今はどうかわからないが、成績は優良可や、◎○△で評価される。可や△も+に思えるが、これは明らかにーを意味するのだと思う。良と○が「まあそこが普通のラインだよね」と暗黙裡に基準点に設定される。みんな整列して、算数でも国語でも体育でも+を求めるのは、むしろ身勝手じゃないかとさえ思う。算数ができなくても体育で「優」「◎」では評価しきれない抜群の+を叩き出す人もいるから。
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これまでは、世間の大きな物差しの上に、経済もビジネスも成り立ってきた。
人はこれから、もっとパーソナルな、”好み”で付き合う人を選び、使うものを選ぶようになるのだろうと思う。好みは、+ーの物差しよりも複雑なのだ。それはもっと情緒的なものだからこそ。
”好み”にアクセスするために、心のないブランディングは効かないし、統計から導かれるマーケティングはもってのほか。その企業・表現者・創作者の尽きない情熱や、表現したそのものから滲み出る何かに人は惹かれるのだ(基準点がないので、”何か”と敢えて曖昧にしておきたい)。
つまり私たちは、外側に目を向けすぎるのではなく、息を大きく吸い込んで内側に深く潜り込み見つけた宝物を磨き続けるしかないのだ。その輝きの魅力を語り合える人が、きっといると信じて。
私も、1億人の「優」の評価がほしいとは思わない。たった100人でもいいから、測りきれない好みで選ばれる創作をしていたい。
*とあるエッセイへのアンサーソング的な。いや、アンサーノート?笑