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苦いカレーは飲みこめない【ひとことお題20】

ほぼ毎日「ひとことお題」、本日は『大人』
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大人になった。
そう口に出すとき、なにがしかの「苦み」がそこにある気がする。

例えば、子供のころ嫌いだったピーマンを食べられるようになったとき。いわゆるカレーライスじゃない、スパイスがふんだんに使われた複雑な味のカレーを食べたとき。内臓系のオツなつまみをあてに日本酒をたしなむとき。

あるいは、耳の痛い指摘を黙って受け入れるとき。自分の未熟さを噛み締めてただそこに踏ん張るとき。感情に任せて怒りを面に出さずに済んだとき。

物理的、精神的な「苦み」をゴクリと飲み込んでいるような気がするのだ。そしてそうできたときには「苦み」を制した誇らしささえ感じる。

でも一方で、「苦み」を感じるとは体にとって有害な物質であると警告が出ている状態でもある。つまり、なんでもかんでも「苦み」を飲み干せばいいってものではないのではないか。

良薬口に苦しなんて言葉もあるが薬だって毒にもなり得るだろう。手当たり次第に苦さを飲み干して大人になったつもりでいたら、いつの間にか自分の体に色んな毒が入っていて手遅れ、なんてことにはなりたくないものだ。

例えば、飲み込んではいけない「自分の本音」みたいなものまで、自分の意見や感情をあまり表に出さないことを良しとする「言わずにおいた苦み」と勘違いして飲み込んでしまって、気が付いたら無味乾燥した味気ない自分になっていることも起こり得る。過去の私だ。

だから、飲み込む「苦み」はよく判別しなければいけない。
それは自分をちゃんと大人になる方向に連れて行ってくれるものか?

いやそもそも、それを飲み込むことは本当に大人になるってことなのか?

飲み込みたくないものを飲み込まないのも、立派な大人だ。
少なくとも私は、苦いカレーは好きじゃないし飲み込みたくないと思う。

まあだから、「苦み」を飲むも飲まないも自分でちゃんと判断できる。
それが大人になるってことなのかもしれない。

おわり


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