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聖母さんの隣の高橋くんは自分の心臓とお話ししてます 第一話

 私の隣の席の高橋くんは少し変わっています。

 彼女が教室の扉を潜った瞬間、そこは聖地巡礼の舞台へと化す。
「あっ聖母さんおはよう!」
 ショートヘアの女子生徒が可愛らしい笑みを浮かべて挨拶してくる。
「聖母さんおはよう!」
 バスケ部のガタイの良い男子生徒が大きく手を振って声を掛けてくる。
「おはよう。今日もお天気ね」
 マリヤは、声を掛けてくれるクラスメイトに上品に微笑み、小さく手を振って挨拶する。
 彼女の名前は星保せいほマリヤ。
 この地元でも名の知れた進学校に通う高校二年生。
 渾名あだなは、"聖母さん"。
 その由来は、漫画やラノベですらもはや取り扱わないような当て字のような名前の響きと、それに負けない容姿ルックスからだった。
 肩まで伸ばした紙風船ようにのふんわりと膨らんだ明るいブラウンの髪に大きな髪と同じブラウンの目、少しカールのかかった長い睫毛、幼さと大人っぽさが両手を組んで踊っているような明るい西洋的な美貌、そしてブレザーを着た制服越しにも分かる健康的な肢体に大きな胸……。
 まさに世の日本人が描く理想的な聖母そのものでだった。加えてそのお淑やかな佇まい、優しげな眼差し、身体中から溢れ出る温かい雰囲気に彼女と少しでも仲良くなれたらと男女問わず彼女に挨拶してくる。
「おはようございます聖母さん」
「聖母ちゃんおはよう」
「おはよう聖母さん」
「おっはよう!今日も輝いてるねえ聖母ちゃーん!」
 まるでアイドルに送る声援のような熱い挨拶、しかしマリヤは嫌な顔一つせずに品良く笑い、淑女の如く小さく手を振る。
「おはよう皆さん。今日もよろしくね」
 その声のどこかに少しうんざりしたものを含みながら。
 一通りの挨拶を終えるとマリヤはスクールバッグから教科書を取り出して授業の準備を始める。
 一限目は化学の授業。
 マリヤは、昨夜予習したノートと教科書を机の上に置いた。
 教室の扉が開く。
「わかってるよ、愛はうるさいな」
 聞こえてきた話し声にマリヤは目を向ける。
 入ってきたのは長い黒の前髪に黒縁眼鏡、ブレザーに着られているようなヒョロ長い身体つきの男子生徒であった。
 男子生徒は、右手をブレザーの左胸部分に当てながらブツブツと何かを呟きながら教室の中に入ってくる。
 まるで目の前にいる誰かと話しているように。
 しかし、彼の目の前にも横にも後ろにも誰もいない。
 彼は、黒縁眼鏡越しに空を見つめ、周りはそんな彼に奇異な目をぶつけた。
 先程までマリヤが入ってきたことで華やいでいた空気が一気に沈み込む。
「しょうがないだろ。あのアニメが面白かったんだから。リアルタイムで見なきゃ馬鹿じゃないか。神作だぞ」
 男子生徒はブツブツ呟きながら机と椅子、そして人の垣根を抜けていく。
 生徒達は、そんな彼の様子を不快そうにじっと見つめる。
 彼は、自分の席、マリヤの隣りに座る。
 スクールバッグから教科書やノートを取り出している最中も彼は虚空にいる誰かと話す。
「分かってるよ。今日は化学だろう?口うるさく言うなよ。予習?まあそれはしなかったけど……別に今日は試験でもないんだからいいだろ?真面目にやれ?もう愛は本当に……」
「高橋くん!」
 マリヤは、声を掛ける。
 彼……高橋は口を閉じる。
 黒縁眼鏡の奥にある気怠そうな目がマリヤに向く。
「……おはよう星保せいほさん」
 高橋は、先ほどまでとは違い、眠そうで、トーンの低い声でマリヤに挨拶する。
「うんっおはよう」
 しかし、マリヤはそんなこと気にせずににこっと微笑んで挨拶する。
「今朝も愛さんと喧嘩してるの?」
 柔らかに問いかけるマリヤに高橋は頷く。
「朝からうるさいんだよ。寝坊しただけで夜遅くまでアニメなんて見てるからだ、とか。朝ご飯をしっかり食べなさい、とか。忘れ物はないのか、とか。グチグチとうるさくて嫌になっちゃう」
 高橋、そう言って小さく鼻息を吐く。
「なんかお母さんみたいね」
 マリヤは、おかしそうに笑う。
「でも、そのおかげでちゃんと出来たんでしょう?」
「まあ、遅刻せずには来れたけど……」
 高橋は、モゴモゴと口を動かす。
「じゃあ.愛さんに感謝しないと。お礼言った?」
「……言ってない」
 子どものように口を尖らして言う。
「じゃあ、言ってあげて。愛さん喜ぶわよ」
 マリヤが優しく、品の良い笑みを浮かべて言うと高橋は少し間を置いてから頷き、左胸に右手を置く。
「愛……ありがとう」
 高橋は、囁くように言う。
「……愛さんなんだって?」
「どういたしまして……だって」
 高橋は、小さな声で呟く。
 それを見てマリヤはにっこり微笑む。
「仲直り出来たみたいで何よりね」
「……うんっありがとう」
 高橋は、恥ずかしそうに俯いてマリヤにお礼を言うと、授業の準備を始める。
 そんな二人の様子を見ていた生徒たちからは「聖母さんすげえ」「よく嫌な顔しないで相手できるよね」「俺なら気持ち悪くて出来ねえよ」「さすが聖母。私達とは違うね」と言う陰湿な声が囁かれていた。
 そんな声は当然、二人の耳にも届いていたがマリヤは表情変えずに品良く柔和に、高橋は素知らぬ顔で化学の教科書とノート以外を机の中にしまう。

 私の隣の高橋くんは少し変わっている。
 彼には"愛"という"見えない友達イマジナリー・フレンド"がいた。

「答えは三番のニッケルです」
 高橋が気怠そうな声で答えると化学の教師は「正解だ。素晴らしい」と小さな笑みを浮かべて答える。
 高橋は、特に何もなかったかのように席に座る。
「なっ、だから大丈夫って言ったろう?」
 左胸に手を当てて囁くように高橋は見えない友達に話し掛ける。
「偶然?こんな問題。ちょっと教科書読めば分かるさ。それなのに……わかった。ちゃんと授業聞くよ」
 どうやら愛は正解したのにあまり褒めてくれなかったようだ。正解したのに可哀想に。
 それに周りの反応も……。
「んだよっ陰キャの癖に……」
「ああいう気持ち悪いのに限ってお勉強だけは出来るんだよな。ムカつくわぁ」
「ブツブツきもっ!カンニングでもしてんじゃね⁉︎」
 などとわざと彼に聞こえる程度の小声で陰口を叩く。
 その毒でしかない声にマリヤはぎゅっと胸を痛める。
 だから、彼女は高橋の方を見て優しく微笑む。
「凄いね。高橋くん」
 彼にだけ聞こえるように小さな声で称賛の言葉を送る。
 それは嘘偽りないマリヤの言葉。
 高橋は、黒縁眼鏡の奥の気怠そうな目を彼女に向け、小さく会釈する。
 その姿がとても可愛らしくてマリヤは背筋が震えそうになる。
 まるで小さな子犬に舐められたような嬉しいこそばゆさが駆け上る。
  その後も高橋は教諭から設問がある度に無難に答えていき、他の授業でもそつなく問題をこなし、パーフェクトな解答を述べていく。
 まさに文句のつけようのない優等生。
 しかし、周りからは冷ややかな視線と針のような陰口しか返ってこない。
 彼は、気にした様子も見せず問題を解き終えると席に座って見えない友達とブツブツと会話していた。

 お昼休み。

 パァンッ!

 マリヤの振ったスポーツタオルが空気を叩いて静寂を突き破る。
 マリヤは、屋上に続く階段の踊り場に立って身体を捻り、タオルを握った右手を思い切り振っていた。

 パァンッ!

 パァンッ‼︎

 そのフォームはまさに野球の投手がボールを放つ姿勢そのままで、マリヤは脇目もふらずに一心不乱に空に向かって見えない球を投げ続ける。
 汗が飛び散り、ブレザーを脱いだワイシャツの膨らんだ部分が大きく揺れ、右腕に当たり、ボタンが弾けそうになる。
 しかし、マリヤはそんなこと気にも止めずに一心不乱にタオルを振り続ける。
 その表情は聖母とは程遠い、何かに挑みかかり、くらいつく戦士のようだった。

 それから十分ほどタオルを振り続け、身体に疲労を感じるようになってからようやくマリヤはフォームを解いて大きく息を吐く。踊り場の壁の裏に隠れると大きめの保冷バッグから取り出した涼感シートで汗を拭いて火照った身体を冷やし、ワイシャツを新しいものに着替え、使った物を全て保冷バッグに突っ込み、タオルを首にかけて壁の裏から出る……と。
星保せいほさん」
 下方から声が聞こえてくる。
 マリヤは、顔を上げると右手に紙袋を持った黒髪に黒縁眼鏡、そして気怠そうな目をした少年、高橋が階段の下に立っていた。
「高橋くん⁉︎」
 マリヤは、驚きに声を上擦らせる。
「ど……どうしたの?こんなところに?」
「お昼ご飯」
 高橋は、右手に持った紙袋を持ち上げる。
「今日はここで食べようと思って……」
 高橋は、気怠そうな目を上げてマリヤを見る。
星保せいほさんは?」
「えっ?」
「凄い汗かいてるけど平気?」
「あっうんっ大丈夫」
 マリヤは、首にかけたタオルで汗を拭く。
(あっなんで首にタオルなんてかけてるの?って突っ込まれたらどうしよう……)
 マリヤは、慌ててタオルを首から抜き取り、何か言い訳しようと高橋の方を向く、と。
 高橋の黒縁眼鏡と気怠そうな目が眼前に飛び込んでくる。
 マリヤは、思わず顔を引く。
 いつの間にかマリヤの一段下まで登ってきた高橋は気怠そうな目でじっとマリヤの顔を見る、と突然、左手をマリヤの首筋に手を当てた。
「…………………………!」
 マリヤは、声にならない悲鳴を上げて頬を真っ赤に染める。
「熱は……なさそうだね?」
 しかし、高橋はマリヤの変化になど気にも止めずにじっと顔を覗き込んでくる。
 そして次に……なんと左手を彼女の胸部の下、豊満な胸を手の端で持ち上げるようにして当てた。
「……………………!」
 マリヤは、顔中から炎が吹き上がりそうな暗い真っ赤になる。
「心音も……ちょっと速いけど問題ないか」
 高橋は、まったく表情を変えないまま気怠げな目を向ける。
「気持ち悪いとかはない?お腹が痛いとか?あっひょっとしてせい……」
 高橋の顔が苦痛に歪む。
 ライターに炙られたようにマリヤの胸から手を離し、左胸を押さえて前屈みになる。
「高橋くん⁉︎」
 マリヤは、何が起きたか分からず動揺して彼の背中に触れようとする。
「大丈夫……」
 高橋は、紙袋を持った右手を前に出してマリヤを制する。
「でも……」
「本当、大丈夫」
 高橋は、顔を上げる。
 その額には脂汗が浮かんでいた。
「ちょっと愛に怒られただけだから」
「愛さんに?」
 マリヤは、目を震わせて訊く。
 高橋は、頷く。
「女の子に無遠慮に触ったり、失礼なことを聞くんじゃないって……」
 そう言って手の甲で汗を拭う。
「それで怒ったの?」
 マリヤは、信じられないと言う言葉と気持ちを押し殺して言う。
見えない友達イマジナリー・フレンドは、彼の心の投影。分身とも言える存在だ。それが女の子の機敏な心境を察知し、しかも受容と共感をするのではなく反発と叱責をするなんて……。
(しかも痛みを?)
 マリヤは、ぞくっと背筋が震わせた。
 幻肢痛とはいえリアル過ぎる気がする。
「触っちゃってごめんなさい」
 高橋は、小さく頭を下げる。
 マリヤは、眉を顰める。
「……それも愛さんが?」
 高橋は、顔を上げる。
「確かに言われたけど……謝罪は俺の気持ち」
 高橋は、恥ずかしそうに頬を掻く。
「なんで触っちゃっていけないのかイマイチ良くは分かってないけど……」
 分からないんだ……。
 本当に子どもみたい……。
「でも、愛が言うならそれは本当にいけないことだから……」
 高橋は、もう一度頭を下げる。
「ごめんなさい」
 高橋のしゅんっと謝る姿にマリヤは思わず唇を緩めてしまう。
「それじゃあ……俺別のところでご飯食べるので……」
 そういうと踵を返して階段を降りていく。
「待って!」
 その背中にマリヤは慌てて声を掛ける。
「もし……良かったら一緒に食べない?」
 高橋は、振り返り、気だるそうな目を大きく開く。
「触ったお詫びに……ね」
 そう言ってマリヤはにっこり微笑んだ。

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