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看取り人 エピソード5 失恋(8)

 雨の音が静寂の空間にゆっくりと走る。
 部屋は電灯が付いているのにどこか薄暗く、酸素を送る機械の小さな音とパソコンのキーボードを打つだけが響く。
「あの子の話しの通りだね」
 白髪の男は、ベッドに横たわったまま力のない笑みを浮かべて少し離れたパイプ椅子に座って膝に置いたノートパソコンを打つ看取り人を見る。
 看取り人は、キーボードを打つ手を止めて白髪の男に三白眼を向ける。
「目が覚めましたか」
「お陰様でね」
 白髪の男は、目だけを動かして部屋の中を見回す。
「まさか、またここに戻ってくるとは……ね」
 白髪の男は、小さく嘆息し、痛々しく咳き込む。
 節目の多い天井、白い壁、温かみのある色合いの質素な家具、身が沈むような介護ベッド、そして呼吸すら自発でままならなくなった白髪の男に酸素を送る機械。
 ここはホスピス。
 決して治ることのない病気に侵された人間が安らかに逝くための最後の棲家。
 そして……。
「君が看取り人だね?」
 白髪の男は、窶れた顔に笑みを浮かべる。
「はいっ」
 看取り人は、キーボードを打つのを止める。
「僕が看取り人です」
 看取り人は、抑揚のない声で答え、三白眼をきつく細める。
「僕をここに運んだのは君か?」
「はいっ救急隊にお願いして無理に。彼らは仕切りに病院に運ぼうとしましたが貴方がホスピスの入居者であることを伝え、所長から訪問医に救急隊を説得してもらって連れてきました。例外中の例外です」
 看取り人は、抑揚のない声で淡々と告げる。
「何故?」
 白髪の男は、息苦しげに聞く。
「何故?」
 看取り人は、眉根を寄せて聞き返す。
「何故……わざわざ僕をここに連れ戻したのかな?僕はどっちみち死ぬ。どこで死のうと別に構わないじゃないか?」
「貴方こそ何を言ってるんですか?」
 看取り人は、三白眼を歪める。
「貴方は……先輩を犯罪者にしたかもしれないんですよ?分かってるんですか?」
 看取り人の言葉に白髪の男は眉根を寄せる。
 看取り人は、小さく嘆息する。
「貴方がホスピス以外で死んだら……それは病死じゃありません。変死です。救急隊に運ばれるのは病院で、警察による調査と鑑識が入ります。そして……一番に疑われるのは先輩です」
「考えすぎだよ。僕の死因は病死だよ。司法解剖すれば分かることだ。第一発見者にはなるかもしれないけど犯罪者になんてなりはしない」
「ふざけるな」
 看取り人の声が冷たく響く。
 白髪の男は、窪んだ目で瞠目する。
「第一発見者?犯罪者にはならない?何勝手に自己弁護してるんですか?」
 看取り人の三白眼が鋭い切先となって白髪の男を突き刺す。
「どんなに取り繕おうが貴方が先輩を巻き込んだのには変わりない。先輩に悲しい思いをさせたことには変わりない。あんたの身勝手な死場所選びに先輩を巻き込むな」
 看取り人から放たれる静かで重い気迫に白髪の男はもはや唾液の出なくなった喉を鳴らした。
 まだ、数歩離れたところにいるはずの死神が一気に詰め寄ってきたような感覚に襲われる。
「君は……」
 白髪の男は何かを言いかけ……止めた。窶れた顔に弱々しい笑みが浮かぶ。
「それは配慮が足りなかったね。申し訳なかった」
 白髪の男は、力ない声で謝る。
 看取り人から気迫が消える。
 三白眼が和らぎ、表情も乏しくなる。
「僕は……もうじき死ぬのかな?」
 自分の身体のことだ。聞かなくても分かっている。
 自分はもうすぐ死ぬ。
 この場所ホスピスで意識を取り戻したのは奇跡と言ってもいい。そしてその奇跡ももう僅かだ。
 そこまで分かっていても白髪の男は聞かずにはいられなかった。
「はいっ」
 看取り人は、抑揚のない声で答える。
「僕は、医師でないので後どのくらいとはっきり明言することは出来ません。でも、貴方がもうすぐ亡くなることだけは分かっています。だからこそ……僕は呼ばれたのだから」
 看取り人は、抑揚のない声で淡々と告げる。
 白髪の男は、ゆっくりと目を閉じ、開き、苦笑する。
「よくもまあ、言いづらいことを淡々と語れるね」
「僕を頼むと言うことはそう言うことですから」
 看取り人は、三白眼をきつく細める。
「そうか……そうだよね。でも……困ったなあ」
 白髪の男は、節目の多い天井を見上げる。
「実はね。もう話すことはないんだ。書きたいことは書けたし……言いたいことはもう彼女に言えた……から」
 白髪の男は、苦しげに息を飲み込み、吐き出す。
「だから、思い残すことはないんだよ」
 白髪の男は、和やかな笑みを浮かべて申し訳なさそうに言う。
「頼んだのに悪いね」
「それは構いません」
 看取り人は、淡々と答える。
「でも、依頼されたからには最後まで付き添います」
「そうか……」
 白髪の男は、苦しげに息を吐きながら目を閉じる。
「それでは……僕から聞いてもいいですか?」
 予期せぬ看取り人の言葉に白髪の男は弱々しく目を開き、横目を向ける。
「なんだい?」
「貴方が……僕を……看取り人を依頼したのは昨日のことだと所長から聞きました。それまでは一人で死ぬことを望まれていたのに……。何故、急に依頼を?」
「なんだ、そんなことか」
 白髪の男は、ふうっと息を吐きながら笑う。
「あの子に聞いたからだよ」
 看取り人は、眉を顰める。
「あの子が傷つきながらも嬉しそうに話す看取り人とはどんな男なのかと気になってね。それで最後に見てやろうと思って……ただそれだけだよ。他意はない」
 十分に他意だろうと看取り人は思ったが口には出さなかった。
「それでは……どうでした?」
 看取り人は、抑揚のない声で訊く。
「貴方のお眼鏡には叶いましたか?」
「まあ、及第点かな?」
「合格ではないんですね」
「君は、もう最初の方に不合格まで点数が下がっていたんだ。及第点はむしろ喜ばしいことだと思うよ」
「そうですか」
 看取り人は、それ以上何も言わなかった。
 白髪の男は、ふふっと小さく笑う。
「もう一つ聞いても?」
「なんだい?」
 男は、和やかに、苦しげに訊く。
 看取り人は、三白眼をきつく……細める。
「貴方が……先輩と一緒にいたのは偶然ですか?」
 白髪の男の目がきゅっと細まる。
「貴方は……先輩のお父さんなんですか?」

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