見出し画像

この国の自転車政策で罰則も青切符も免許制度も無意味なこれだけの理由

11月に入った。今月から、自転車のながらスマホ&酒気帯びが厳罰化されるというニュースが一部では話題になっているけど、早くもその効果に疑問符がついている。
というか既に有名無実化しはじめてる。

実際街では、相変わらずそんなこと知らないとばかりにスマホ見ながら自転車走らせてる人はいまだ少なくない。
そして警察も呼び止める気ないし、そもそも警官自体いない。

2026年には自転車にも青切符が切られるようになるらしいが、この調子でいくと、まず間違いなく中途半端に終わり、頓挫することは目に見えている。

さらにこの機に乗じて、SNSやネット記事では「自転車にも免許制度が必要」などと言い出す輩が激増している。

どうして毎回こんなことになるんだろう。
その理由についてあれこれ考えてるんだけど、どうやらわれわれはみな、そもそもの認識が根本的に間違っているんじゃないか?
そしてその根本的な認識の違いを理解しない限り、罰則も青切符も、ましてや免許制度なんてやっても絶対に機能するわけない。
ましてやオランダやデンマークのような豊かな自転車文化なんて、永遠に日本には根付かない。

「たかが自転車」という意識

上記のように断言できる理由の一つが、自転車に対してわれわれ日本人が持っている「たかが自転車」という意識だ。

スマホを使う4つの目的なんてどうでもいいけど、この手の自転車の交通違反にまつわる記事を読むたびに毎回引っかかっていたことがある。
それは、記事の中で例に挙げられている、逆走や信号無視、ながらスマホなどの違反をして捕まる人や、注意を受ける人たちはみな

「たかが自転車なのに」
「自転車でダメだと思わなかった」
「なんで自転車なんかでいちいち言われなきゃいけないの」

などと、異口同音に悪びれずに答えていることだ。当たり前のように。
自転車に乗る乗らない関係なく、たぶん同じことを考えている人は相当数いるはず。これが原付スクーターや250㏄バイクだったら、同じこと言えるだろうか?

つまり、日本でいくら自転車の違反対策をやってもムダなのは、国民全体がみな潜在意識レベルで持っている「たかが自転車」という考え方のせいだ。

それは裏を返せば、この国の国民は自転車を車やオートバイ同様の交通手段の一つとは考えていないということでもある。
今でこそ盛んに言われているが、そもそも自転車は「軽車両」であり、道路交通法を遵守するべきものとされている。
にもかかわらず、ほとんどの人は自転車を「ちょっとその辺まで行くのに便利なもの」「歩くよりは速い手段」としてしか見なしていない。

要は日本人にとって、自転車はただの「道具」に過ぎない。
動力も持たず、燃料も要らず、免許不要で子どもでも乗れる。
女子供、年寄りなど交通弱者のための、生活圏内を低速で移動する歩行の延長、足代わりとしての「道具」。
下手をすれば「おもちゃ」としか見なしていない人もいるかもしれない。
その程度のものを使って左右逆に走った、信号を無視したからといって、なぜ取り締まられなきゃならないんだ?

ほとんどの人は、確実にそう感じているに違いない。

日本人の意識を低くした「自動車優先」の交通政策

もっとも、そうなってしまったのは日本人一人ひとりが悪いわけではないし、それをもって日本人の意識が低いとも言えない。

個人的には、日本人の「たかが自転車」という感覚は、ずいぶん昔から国民の意識にがっつりと植えつけられ、その状態を保たせ続けるしくみによって今日まで根付いてきたとにらんでいる。

そもそも自転車は、かなり早くから明確な移動手段の一つとして確立され、主にヨーロッパなどでは、街中の低速移動だけでなく、街から街といった中長距離を、中速度域で移動することも想定されていた。リェージュ~バストーニュ~リェージュやツール・ド・フランスといった自転車ロードレースが始まったのは19世紀のことであり、自転車は移動手段であると同時に、スポーツ、特に労働者のためのものとして根付いてきた。

いっぽう日本でも、大正~昭和前半は自転車が交通の主力として活用されており、レースもそれなりに盛んだった模様。

しかし、戦後~高度経済成長期へと時代が進むにつれて、自転車は文字通り端へと追いやられていく。その原因は

  • 急激なモータリゼーションの進展

  • 道路政策の怠慢

  • 日本独自のママチャリ文化の浸透

である。
戦後の復興と東京オリンピック(1964年)を機に、日本は経済復興と一級国への仲間入りを急いだ。その一環として進められたのが道路などインフラ整備であり、車の普及、モータリゼーションだ。
そうしたクルマ第一の国是のもと、自転車はほぼ完全にシカトされた。

日本を一流の国にするため、道路管理者には自動車が通れる道を1日も早く整備することがトラウマとなったに違いない。つまり自動車に比べれば自転車は取るに足らない小さな問題であった。

引用:自転車走行空間の歴史 岩手県立大学総合政策学部 教授 元田良孝

道路管理者は自転車の振興というよりは自動車を優先する政策の一環として自転車道を考えていたのではないだろうか。

引用:引用:自転車走行空間の歴史 岩手県立大学総合政策学部 教授 元田良孝

しかしそうした急激なモータリゼーションには、肝心の道路の整備と国民の意識が追いついていかない。結果交通事故は現在とは比べ物にならないほど急増。
上記の論文によると、交通事故死者数が最も多いのは昭和45年の16,765人
令和5年の交通事故死者数が2,678人で、今より1/5も少ない自動車台数でこれだから、どれほどひどいかがよくわかる。
当然国は対策を余儀なくされたが、でも車は減らしたくない。
そこで割を食ったのが自転車だ。

自転車道の整備等に関する法律はまさに自転車道のバイブルとでも言える法律であったが、現在振り返ってみると同法律で約束されたはずの自転車道は大規模自転車道等の自転車専用道路を除いてはほとんど反故にされていると言えよう。この背景には戦後モータリゼーションの進展とともに増加した交通事故がある。

引用:引用:自転車走行空間の歴史 岩手県立大学総合政策学部 教授 元田良孝

法律で歩道上の自転車走行を条件付きとは言え容認し、道路構造でも自転車が歩道を走るように対応させたことにより1つのシステムが完成した。だがこれが現在に至るまで自転車道ができなかった主な原因であると考えられる。

引用:引用:自転車走行空間の歴史 岩手県立大学総合政策学部 教授 元田良孝

それまでは軽車両として車道走行が義務付けられていた自転車が、昭和45年の改正道路交通法により、歩道や交通に支障がなければ歩道を通行できることにされた。そのため警察も緊急措置として、安全確保のため歩道上を走行するように指導を始める。
しかしその間、緊急措置だったはずの対策は放置され、なし崩し的に常態化し、自転車用道路の整備はほぼ完全に手つかず。
より速く、遠く、大量にが全てとされた社会での、「たかが自転車」というナメ切った態度はここからも見てとれる。

そんな「自転車は歩道」という誤った認識にさらに拍車をかけたのが、日本独特の「ママチャリ」の普及。

実は日本の自転車利用率は、ヨーロッパの自転車先進国と比べてもはるかに高い。日本はなにげに自転車大国でもあるのだ。
その立役者は他でもない、ママチャリである。欧米での多数を占める高価なスポーツタイプと違い、

ママチャリは、スポーツタイプの自転車と異なり、サドルとハンドルの位置関係から背筋を伸ばした姿勢で乗車でき、ステップスルー式のフレームのため、女性にも使いやすく、停止した時に素早く足を地面に着けられ、低速走行や、頻繁に発進と停止を繰り返す必要のある混雑した場所を走るのに完璧であるという。また、買い物カゴ、泥よけ、ベル、ライト、駐輪用スタンドなど、多くの実用的な附属品を標準装備し、子供乗せシートも設置でき、通勤・通学、買い物、子供の送迎など、若者から高齢者まで、多様な目的で使 うことができ、道路が狭く、路地の多い日本の街に最適な乗り物と評価されている。

引用:大森宣暁 わが国の自転車文化に関する一考察 -ママチャリに着目して-IATSS Review Vol. 46, No. 2(太字強調は筆者)

といった特性を持ち、実は欧米でも評価は高い。便利だしね。
ママチャリのこうした特性が日本の風土に見事にマッチしたこともあり、わが国の自転車保有台数の実に6割がママチャリだという。

しかし、こと「乗り物」という面では、その利点は完全に裏目に出る。

いわゆるママチャリと言う歩道に合わせたわが国独自の緩速自転車の発達は歩道走行の思わぬ副産物であったが、高速走行に不適なため、この存在が自転車を歩道から車道へ移す障害ともなっている。

引用:自転車走行空間の歴史 岩手県立大学総合政策学部 教授 元田良孝

日本のママチャリは上記太字で強調したように、

  • 背筋を伸ばした状態での乗車

  • ストップ&ゴーが頻繁

  • 狭い混雑した道を通る

といった乗り方に適しているため、悲しいくらい高速・中長距離の移動には向かない。
当然ながら、車道を走るのにも向いてなければ、その必要性もない。
そんなママチャリが日本の自転車の大多数を占めたことで、自転車そのものも必然的に生活圏内を低速で移動する単なる「道具」に過ぎないと見なされるようになってしまったのだ。
日本人の「たかが自転車」という交通手段としての意識の低さは、自転車が便利になって多くの人に身近になり過ぎてしまったため、というのは、なんとも皮肉な結果というべきか。

ところで、これはあくまで自分の憶測でしかないのだが、上記に挙げたような一連の要因は、自転車そのものを「女子供や中高生、年寄りの乗るもの」として一段下に見なし、「大人の男ならクルマ転がしてナンボ」という成人男性の優越感を醸成させてきたことに寄与してきたのではないだろうか。
その結果、富と力(速度・馬力・燃費)、効率と利便性の象徴たる自動車と、それを所有する自分は偉いという感覚が、どこかに根付いてはいないだろうか。
その証拠に今でも田舎へ行くと、昼間から町中を自転車で移動している成人男性は、周囲から変わり者扱い、ひどい時には不審者のような目で見られることが少なくないらしい。確かに。
この「いっぱしの男がなぜクルマに乗らずにチャリでうろついてるんだ」という冷たい目線は、そのまま自転車というものを乗り物・車両と認識せず、交通弱者の足代わりとして軽視する差別感情の裏付けに他ならない。
ふざけんな。

スポーツバイクという存在に追いついてない意識(乗る人も含めて)

そんな、みんなに重宝されているにもかかわらず低く見られていた自転車だけど、2000年代以降のスポーツバイクブームで復権の狼煙を上げる。
ロードレースを題材にした某マンガが爆発的にヒットし、自転車やロードバイクを取り上げるメディアも増え、健康や環境問題という追い風もあってか、街にはスポーツバイクで疾走する人々が増えていくようになる。

さてそうなると面食らうのが、自転車などには関心のない一般市民、どこへ行くにもクルマを使うドライバー。彼ら彼女らは当然、「自転車は歩道を走るもの」という考えから脱却できていない。だって今までそうだと教えられてきたし、「車道が原則、歩道は例外」だなんて知らないもん。

自転車なんてたかが道具。クルマを運転できない人が町中でトロトロこぐもの。しょせんクルマやオートバイより一段下。おとなしく歩道のはじっこ走ってろ。

そんな風に見下していた自転車風情が、ここにきて突然車両としての権利を主張し始め、こぞって車道へと繰り出すように。しかもそれらが「ロードバイク」やら「クロスバイク」やら、いきなり「バイク」だなんて呼ばれるに至っては、もうわけがわからない。(いやそういう名前が当たり前なんだけどね)

時代は変わったのだ。スポーツバイクの流行によって、日本人は自転車を車両としての認識せざるを得なくなった。そして当然それに見合ったルールの必要性も。

なのにそんな状況を、いまだほとんどの人がちゃんと受けとめきれていない。
いくら「自転車は車両」「原則は車道」「右側逆走、信号無視は違反」「酒気帯びやながらスマホは罰金」なんて言われても、これだけ長い間「たかが自転車」という潜在意識を刷り込まれてしまっては、よほど強い意志や自転車への思い入れがない限り、行動を、意識を変えるのは容易ではない。

しかも状況をさらに悪くしているのが、本来なら率先してそうした意識を変えなければならないロードバイク乗り(ローディー)たち自身にも、「たかが自転車」の呪縛から逃れられていない人が多いってことだ。

そこまで本気でロードバイクにハマるでもなく、何となくかっこよさげだから買ってみた的な意識低い系。たいていヘルメットしてない。
右側逆走、信号無視も当たり前。都合が悪くなると歩道へ上がる。

市民レースに出るためガチでトレーニングに励んでいるシリアスレーサー。空力のいいウェアに、高価なホイール履いてサイコンでデータ取得にも余念がない。なのにこの人たち、ゴールスプリントでも想定してるのか、赤信号でもギリギリで突っ切る。片側二車線の追い越し側を平気で爆走する。二段階右折せずに直進対向車を妨害する勢いで曲がる。いやほんと信じられん。

ロードバイクって速いし、目立つからね。それで無法な運転すりゃ、ロードバイク全体が悪者にされちまう。それただの暴走行為だから。
日章旗ヘルメットに改造原チャリでぼへぼへ空ぶかししてる高校生ですら、今どきは信号守るよ。なのに高価なロードひけらかしといてその程度の交通ルールすら守れないって何なん。
ってことはつまり「自転車なんだからそんなにうるさくルール守んなくていいでしょ」って思ってんだろどうせ。
結局そんなガチローディーのお前らも「たかが自転車」という意識が脳みそから抜けきっていないんじゃないかよ。ならそのカンパのホイール俺によこせ。お前にはもったいない。

自転車に運転免許なんて無意味な理由

さてそうなると、最初に言及したように「自転車は車両なんだろ?なら自転車も免許制にして、ルール守れない奴らは自転車乗せるな」という声はリアルでもSNSでも当然上がる。
特に今回みたいに、罰則強化とか法改正とかが報じられるとなおのこと。

あのね、その気持ちは非常によくわかる。
自分も街を歩いていて、あるいはロードバイクに乗っていて、そういうアホな自転車乗りを見かけると、ホントにブチ切れそうになるもん。
そのたびに、やっぱりこの国では自転車に免許ないとダメなのかな…と何回思ったことか。

…それでも、そこをぐっとこらえて言わせてもらえば、自転車への免許制度の導入は意味がないし、やるべきでもない、と思っている。

その理由の一つは、自転車は年齢を問わず、誰でも乗れるものである、という当たり前の事実ゆえ、免許制度を適用させることは困難だからだ。
自転車はまだ幼い子どもも乗る。その子たちに学科・実技の教習や講習をどのように行う? 自転車の利用に年齢制限をかけられるのか?
逆に高齢者はどうする?買物難民、医療難民、引きこもり・フレイル防止など、自転車の利用は高齢者にとっても重要である。そこに免許制を導入することは、非常にハードルが高い。

もう一つの理由は、自転車は車両であると同時に、やはり道具でもある。
その性質それ自体が非常に曖昧で融通無碍なものであるため、やはり免許制度にはそぐわないからだ。
いやおまえ、言ってることさっきとちゃうやん、みんな自転車を道具としか見ていないから、「たかが自転車」という考えになるんだろ?だったらもう「車両」でいいじゃん。と言いたくなるのはわかるが、決してそうではない。
確かに自転車は道路交通法上は軽車両ではある。それでも、決して自動車やオートバイと同じような使われ方だけではない。
たとえそれがママチャリだろうとミニベロだろうと、ロードバイクだろうと、自転車は(基本的に)動力なしの人力で動き、短距離・低速移動と中長距離・中速移動手段の両方の性質を兼ね備えている。ルール上のしばりはあれど基本どんな場所にでも入れるし、どんな用途にでも使える。

つまり自転車は乗り物であると同時に、道具としての役割も果たす、ひどく矛盾した存在なのだ。むしろその矛盾を理解し、咀嚼するところまで今の日本人の意識が追い付いていないのだろう。
それまではずっと「たかが道具」だったものが実は道交法に従わなきゃいけないものだったなんて、どういうことなんだ、じゃあクルマなのか、どっちなんだ、というようなここ数年のパニックぶりを見ていると、「道具としての車両」という自転車の相反する性質をどう考えるか、それを免許制度というもので押し込めることが本当に間尺に合うことなのか、そうした熟慮が足りないように思われる。

そして3つ目の理由は簡単。世界中どこにも自転車に免許を導入している国なんてないということ。
ここで日本が自転車に免許制度なぞ導入しようものなら、
日本はお上に管理されないと自転車ひとつロクに乗れない
自分たちの安全すら自分で管理できない
市民が自主的に交通の在り方について議論できない
そんな未熟なお子ちゃまの国として、世界のいい笑いものになることは目に見えている。

やるべきは道路整備としつこい意識づけ

そのくらい自転車って曖昧な存在だし、だからこそ自由の象徴でもある。
どこへ行くにも、どこまで行くかも、どういうルートをたどるかもその時の気分次第。走るのに燃料もいらなければお金もいらない。
クルマという手段を持たない人にとっては、移動の自由をももたらしてくれる。にもかかわらず、今の日本人がここまで自転車で揉めているのは、この国の国民が自由や権利を使いこなすのがヘタクソなのと同様、自転車の車両としての危険性と、誰でも好きなように使える自由さという、矛盾した相容れなさを消化できないまま来てしまったのだ。

じゃあ自転車の権利をちゃんとしたものにして、「たかが自転車」という意識を変えるにはどうしたらいいのか。
これについては「卵が先か鶏か」のような議論が沸き起こっているけど、まずは自動車専用道路の整備を大々的に行うしかないと思う。
確かに道交法上は「自転車は車道を走るもの」とされている。
だけど、現実に今の狭い車道でママチャリやシティサイクルが走れるかといったらムリだろう。下の写真を見てほしい。

狭すぎる。そしてなんだこの嫌がらせのようなグレーチング蓋は。
花の都大東京。都下だけではない。23区でも、ちょっと幹線道路を外れるとこんなんばっかだ。すべてがクルマ優先にできている。
にもかかわらず自転車の罰則を強くするというのなら、日本中どこの道路でも歩道と車道から分離した自転車道を作らなければ割に合わない。

それじゃクルマが走れなくなる?別にいいじゃない。
さすがに田舎はクルマがないと大変だけど、東京や大阪、名古屋、その他県庁所在地レベルの都市では、そこまでクルマが必要だろうか。
都市部での車移動の大半は半径5㎞程度、しかも乗車人数は一人が多い、というデータも出ている。その程度の移動に、どうしてクルマを使わなければいけない?雨でも降ってない限り、自転車で十分だ。荷物があるというのなら、カーゴバイクを使えばいい。
地球環境のためにも、心身の健康のためにも、自転車の利用はいいことずくめだ。

日本の基幹産業が自動車なのはわかるし、政治家もあの辺の大企業から献金受けてるんだろうけど、政治家も企業も、もうそういう時代じゃないことを認識して、自転車とグリーンモビリティ関連事業にシフトしてほしい。

そして車両としての一面を国民に意識づけるのなら、しつこく、継続的に、無作為に続けてほしい。
どうも今の自転車関連の取り締まりは、人が多い駅前とか、繁華街とか、そういう目立つ場所で警察官3~4人立たせて、笛吹いたりメガホンで注意したりするだけ。捕まえる気ない。しかも1か月もすればもう終わり。どうにも本気で取り締まろうって気がしてない。
この国の自転車対策が決定的に失敗する理由が、ここにもある。
なんせ警察自体が「たかが自転車」としか思ってないんだから。

少なくとも警察官はそろそろそういう意識を改めてほしい。歌舞伎町や明治通りなんかなら白バイ隊10台も揃えて違反者は執拗に追いかけるくらいやってもいいだろう。
それだけでなく、人通りの少ない住宅街や学校が近いところでも、抜き打ちのように定期的に巡回して、皆が忘れたころに飽きずにやらないと、人の意識は変わっていかない。

とかくこの国の民の一番悪いところは、すぐ飽きてすぐ忘れてしまうこと。そんな忘れっぽい国民のために、政府もマスコミも、自転車は道具というだけでなく、車両でもある、というその両面をもっと粘り強く周知していかないとどうにもならない。
マイナ保険証をあれだけしつこくゴリ押しするほどの執拗さと熱心さがあるのなら、できないはずはない。

もういい加減、国民も政府も警察もメディアも「たかが自転車」という考えを捨て、「されど自転車」へと意識を変えていかないと、どんなに罰則を強化しようが、免許制度を検討しようが、絶対に何も変わらない。
日本がモビリティ後進国から脱却できるか否かは、ひとえに「たかが自転車」という意識を変えられるかどうかにかかっている、そう信じている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?