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占い - 運命

未希はこのところの自分に降りかかる不運の連続を嘆いていた。
仕事が終わると遊びにも行かずショッピングもせず同僚と飲みにも行かず、ただ家を目指して歩みを進めるだけだった。

帰宅するとすぐに自分の部屋に閉じこもり、一体どこで歯車が狂ってしまったのかと不運の原因を考え続け、ただ悶々として過ごすだけだった。
しかしいくら考えても、こういうことについて原因なんて分かるはずもなかった。たとえそれが分かったとしても、不運の連鎖の解決策などすぐに見つかるわけではないことも未希には分かっていた。
だったら、なるようにしかならないと開き直ってしまえばいいのだが未希はそんな性分ではなかった。全ては因果関係でしか成立しない、という信念を曲げることができなかったのだ。
今までの困難はそうやってくぐりぬけてきていたのだが、今回ばかりは何かにすがりたい思いだった。

三年間付き合った彼氏との破局からだ…、未希は不運のはじまりの見当をつけている。他に好きな女(ひと)ができた、と一言だけ彼氏から告げられた。その言葉を聞いたとき、未希の中に一番最初に沸き起こった感情は、悲しさや寂しさではなく口惜しさだった。そう思う自分がつくづく嫌だった。
彼氏と別れてから三か月後、一人暮らしのマンションの部屋に空き巣に入られた。大した被害ではなかったが、気持ち悪かったので当面は実家に戻ることにした。未希が実家に戻るとすぐ実家で飼っていた犬が死んだ。
未希も悲しんだがそれ以上に両親と妹が悲嘆にくれた。そして、誰よりも早くその悲しみから立ち直った未希に対して、犬が死んだのは未希が帰ってきたからだ、という訳の分からない空気感が家族の中に漂いはじめたことを未希は感じていた。
実家から会社への通勤時間は今までの倍になった。長時間車内に閉じ込められていることで未希に新たなストレスが加わった。挙句の果てには短い期間に何度も痴漢にあった。確信的な証拠をつかめず、犯人を逃がしてしまったことに未希は無性に腹が立った。
日々の通勤のストレスが仕事にも影響を及ぼしはじめた。
ケアレスミスが増え上司から小言を言われる頻度が多くなった。今までは適当にいなすことができたのだが、いちいち言い訳めいたことを口ばしってしまう。それがまた上司の癇に障り、さらに叱責される始末だった。

今の自分の境遇を高校時代からの親友に話したことがあった。しかし、その親友は親身になって話は聞いてはくれるものの、「未希、一回診てもらったら…」と占いを勧めてきた。
『占い…、自分が占などに興味がないことぐらい分かっているはずなのに…』
小学生の時に不思議な同級生がいた。名前はエム君といった。同級生とは言ってもクラスは違っていた。未希の通ってた小学校はマンモス校で、全員を認識することなどできなかった。その子は、占いができると言って周りの子たちの運勢を占っては人気者になっていた。
当たる占いかどうかは定かではなかったが、ある時、何かのきっかけで全く面識のないその彼が未希のことを占ったことがあった。何て言われるのか…、その時の未希は興味津々だった。
しかし、「お前の運はあんまりよくないな」と一言だけ言われた。未希はその一言に酷くショックを受けた記憶が残っている。言われた後、「何が…?」と恐る恐る聞き返した記憶はあるのだが、その後の内容は何処かに霧散してしまっている。以降、その占い師気取りの同級生とは一切関わることなく小学校を卒業し、いつしか未希の人生からも消えていった。
占いに興味を示すことができないのは、あの時の一言がどこかに影を落としているのかもしれない、と未希は占いという言葉を聞くといつもそこに行きつく。エム君の姿・形を想っても薄っすらと朧げな輪郭が浮かぶだけだった。しかし、彼の名前だけは深い森に息づく苔のように、不思議と未希の頭の中にいつまでもこびりついているようだった。

未希は親友から占いという話を持ち出されてガッカリした。
ただ、考えてみればそれも当然と言えば当然だった。ツキに見放されている状況を聞かされても、いくら親友だからといったって、自分が相手の立場だったら同じようなことしか言えないだろうと思った。
『こんなに重なるなんて、どういうこと…』
仕事帰り、黒い鏡となった電車の窓に映る、老け込んでしまった自分の顔に愕然としながら未希は思った。そんな顔を見続けることができず、未希は思わず目を背け、ため息をつきながらスマホのモニターを開いた。
”占い。あなたの未来診断します”という文字が広告バナーに表示されいるのが目に飛び込んできた。
『占い…』未希は親友から勧められたことを思い出した。
ピンクと紫色で作られているページは安っぽく、いかにも怪しげな広告だった。未希は何げなくその広告をクリックした。
姓名判断、手相、生年月日、占星術、陰陽、風水を総合的に合わせて占うようだ。占い師のプロフィールには顔写真もなく簡単な略歴が書かれているだけだった。そして性別さえ判断できない名前が載っていた。
うさん臭く思ってサイトを離れようとした。ただ、かなりの人数がここの占いを評価している。『こんな統計はいくらでも操作できる…』と思ったが、いつの間にか無料診断の項目をクリックし、性別とニックネームとメールアドレスを入力して送信していた。するとすぐにメールが届き、生まれ月と本名を訊いてきた。未希は迷いながらもそれを入力し、再送信した。
結果が送られて来た。長い文章で、本格的に書かれている。
驚いたことに、まるで誰かに見られていたように、そこには未希のこのところの不運続きの事柄が概ね書かれていた。あと半年は悪い状態が続く…。更に気分を落ち込ませる内容だった。その解決策は…、肝心なことは有料で診てもらわなければならなかった。
『タダで解決しようなんてムシがよすぎるか…、』そう思いながら送られてきた内容を改めて読み返した。『それにしても、よく当たってるわ!』二度目を読み終えるころには、未希はこの無料診断に書かれていることに自分を重ね合わせ、すっかりのめりこんでいた。
料金表を見ると30分の診断で五千円とある。そう高くはないと思い、未希はここで診てもらうことを決めた。すぐに予約のページに飛んだ。しかし、予約はほぼ一か月先まで一杯だった。
『こんなに人気があるなんて…』サイトの安っぽさからは想像できないほど客がついていた。
『もしかしたら、私が知らないだけで占いの世界では有名な人なのかもしれない』未希はそこに載っている占い師の名前を検索してみた。しかしサイトに書いてあること以上の情報は得られなかった。
先になっても予約を入れておくべきか、未希は迷った。
もっと早く診てもらえる方法は何かないものか…、未希は考えた。
そこで初めて、未希は占いの内容にばかり夢中になっていて、お店の所在地の確認をしていなかったことに気づいた。
マップを見ると未希は衝撃を受けた。その店は実家の、普段未希が使っている最寄り駅にあった。
郊外の駅だがその地区の中核駅となっている大型の駅だった。
時計を見ると、午後六時半を少し過ぎている。あと五分ほどで駅に着く。
占いの店は、午後八時まで営業していると書いてあった。
着いたら下見を兼ねてその場所に行ってみようと、未希はすぐに決断した。

未希の家のある出口は駅のメイン広場の方向だ。十年前の再開発により、メイン広場の光景は未希が子供の時のそれとは一変している。未希は逆の出口に出た。そこはメインの出口とは対照的な光景が広がっていた。小さなロータリーがあり、そこから伸びる幾筋かの路の先には昔ながらの商店街が続いていた。すると、未希の今の境遇を証明するかのように、出口に立った途端雨が降り始めた。
このタイミングの雨に口惜しさが込み上げ、未希は思い切り地団駄を踏みたかったが我慢した。
『こっちの出口に出たのは何年振りだろう…』
その代わりに、過去の懐かしみへと感情をシフトした。
自分が利用している同じ駅なのに…、未希はまるで遠い見知らぬ場所に来てしまったような錯覚を覚えた。降り始めた雨はまだほんの小降りだったので、傘を買わずに歩きだした。
『子供のころは、ウチの方もこんな感じだったな…』
そんなことを思いながら、未希はスマホの地図を頼りに商店街を歩き続けた。ほどなくして、あるコンビニの前でマップの矢印が占い店の場所と重なった。しかし、そのコンビニが占いをしている場所だとは到底思えなかった。周囲を確かめるとそのコンビニの脇に、人ひとりがやっとすれ違えるほどの狭い路地があった。路地は両脇から伸びる鬱蒼と生い茂る木々に覆われてその先が見えないほど暗くなっていた。未希は恐る恐るその路地へと入っていった。
すると、すぐに女性達の話し声がこちらに向かってくるのが聞こえた。
「何んか嘘みたい…、」一瞬の話し声だったが、占ってもらった人達だと未希は直観的に思った。
二人の女性は、雨が降り始めてまだ間もないというのに既に傘を差していた。それも間に合わせのビニール傘などではなく、お洒落で可愛いちゃんとした傘だった。
『占いを信望する人って、こういうことに周到な人達なんだ…。いや、周到だからこそ未知のことに対して、占ってでも見当をつけておきたいのか…』彼女たちの声からは占ってもらわなければならないような、切実な気配など微塵も感じられなかった。未希は少し濡れかけてきた自分と占いによって安心感に包まれているであろう、暗い裏路地ですれ違っただけの他人との境遇の違いに勝手な思い込みを発動させていた。
こういう時は、最終的には自分の惨めさにたどり着くことがお決まりなのだが、未希もその例外に漏れず自分の惨めさを嫌というほど味わった。
お互い目を合わせないように軽く会釈をしながらすれ違うと、ほの暗い茂みの中にピンク色のサインが浮かんでいるのが目に入った。よく見ると、紫色で”〇✕の館”3階という文字が書いてある。
その建物は表のコンビニと同じ敷地内に建っているようにも見えた。
ビル…、とは言っても蔵のような、四階建ての、それもかなり昔に建てられたような外観のビルだった。古いビルだが作りはシッカリとしていそうだ。その重厚さは丸の内辺りに建つ古いビルのようだった。
三階まで一直線に続く階段の天井にはアールヌーヴォー調の照明器具がついていた。その柔らかい光によって照らされた階段は、明るさより影の面積の方が大きかった。見上げれば階段は薄暗い闇の中へ消えていくようにも見えた。店の所在地と雰囲気を確かめるだけで帰るつもりだったが、未希はその場で診てもらうことが当然だったように、その闇の中へ吸い込まれていった。未希が歩くたびにヒールが床を叩く音が響いた。
濡れた靴底に張り付いている砂のせいなのか、少し滑りやすくなっている。未希は足元を確かめながら注意深く階段を昇った。
ドアの軋む音が聞こえたかとおもうと上から人が降りてきた。
未希はハッとして視線を上に向けた。男がリズミカルな足取りで降りてくる。男もすぐに未希の姿を捉え、不思議そうな顔を作って未希に近づいてきた。二人はちょうど二階の踊り場付近で合流した。
「あのぉ~」階段に未希の第一声が響いた。
「ハイ…」そう言いながら男は未希の次の言葉を待った。
「お店…、まだやってますか…?実は予約入れてないんですが…」
未希は頭に浮かんだ言葉をそのまま発した。
「あっ、占いの…。実はこの後の予約がキャンセルされて、もう閉めようかと思ってたんです」
男がそう言うと、未希は瞬時にチャンスだと思った。
「予約してないと駄目でしょうか?」
それなら、そのキャンセルを埋めるということでこれから診てもらいたい、という意味を込めて未希は男に尋ねた。
「えぇ…、大丈夫ですよ」
男は腕時計を見ながら、比較的あっさりと引き受けてくれた。
「ありがとうございます。なんか予約表見ると、すごく一杯だったので下見を兼ねて直接来ちゃったんです」未希の言葉が弾んだ。
「そうですか~、それはこちらこそありがとうございます。じゃぁどうぞ」と男は礼儀正しくそう言いながら、手を挙げて三階を指示した。
「あっ、階段ちょっと滑りやすいので気をつけてください」
そう言うと男はまたリズミカルな調子で三階に戻っていった。未希はタイミングの良さに驚きながら男の後についていった。

部屋に入ると、外観からは想像もつかないほどモダンなインテリアで統一されていた。占いめいたアイテムはどこにも見当たらない。そこはまるで会社の整然としたオフィスのようでもあった。
『うちの会社なんかより全然きれい』未希はそう思いながら、自分の中にあった占いという世界に対する印象が違ったものになっていくのを感じた。
「なんか占い屋さんじゃないみたいですね…」未希は正直な感想を伝えた。
「そうですよね。皆さんそうおっしゃいます。僕があまり好きじゃないんですよ。そういう雰囲気の中にいるのが」
「そうですか、とてもいい雰囲気です」
お世辞ではなく、未希は本心からそう思った。この部屋にいると何故か今までとは全く違った安心感を感じることができたのだ。そして、未希に男の顔を正視する余裕も生まれた。
「ありがとうございます」男はまた丁寧に言った。
『大体私と同じくらいの年齢かな…、なんだか普通の好青年って感じ。しかし肝心の占いの方はどうなんだろう…、この人本当にまともな占い師なんだろうか』占い師といっても、未希が想像してたそれとはあまりにもかけ離れていたので、それはそれで少し不安でもあった。
「そうぞ、お掛けください」
男は未希を自分のデスクの前にある椅子に座るよう促した。
「それで、今日はどういうことを診ればいいですか?」
男の質問に、未希は帰りの電車の中でやった無料診断の結果と、今までの自分の境遇を伝えた。
そしてこの場で更に男が求める情報を伝えた。
男は未希の話を聞きながらパソコンのキーボードを打ったり、時々厚い本を開いて何かを確認したり、メモパッドに何かを書いたりした。
何を使って占っているのか未希には見当がつかなかった。未希はただ黙って、自分が何と言われるのか期待と不安が交錯する中黙って男の動作を見守っているだけだった。
男がその作業を止め、少し宙を仰ぐようにして静かに瞼を閉じた。
二人の間に長い沈黙の時が流れた。
「うぅ~ん、正直申し上げると、あまりよくないです」
占い師は唐突に未希にそう伝えた。
その一言を聞いた瞬間、未希は遠い記憶が一気に蘇ってくるような感覚に襲われた。
それは、小学生の時のあの占い師気取りのエム君とのことだった。そして今この目の前にいる占い師は、そのエム君自身なのではないのかと…。未希の脳の情報処理機能がそのことに集約されていった。
今まで、エム君は未希の人生に全く存在してないも同然だった。エム君についての記憶も朧げな輪郭線だけが残り、目も鼻も口も髪型も、色さえなかったはずだった。しかし今この瞬間にあの時の全てがハッキリと描き出され色付けされた。
言葉遣いは違ってた。しかしそんなことよりも、未希を見つめる目つきや表情や彼のしぐさがあの時のエム君そのままだった。そうなると、未希の脳裏に描き出されたエム君の面影が目の前の占い師に重なった。そして、何よりもこの場所が地元であるということが、エム君であるという確信として未希に押し寄せてきた。
「よくないんですが、無料診断にあるように、それもあと半年です。その間気を付けなければならないのはケガですね。程度はよく分かりませんが、ちょっとした不注意から起こる可能性があります。未希さんの今の時期は……」
『やっぱりあと半年は変わらない。それもケガをする…』
占いの詳しい結果とその対処法を聞いた未希だったが、目の前にいる男があのエム君だということの驚きで頭が一杯になっていた。そして、不覚にも私の中にトラウマを植え付けた、あの無神経なエム君に占ってもらってしまったのだという思いが未希を上の空にさせた。
もしかして、エム君?といっそ確認してしまおうかとも思った。
そして大人として改めて接すればいいではないか、と思ったのだが未希が持つエム君に対するネガティブな印象がそれを躊躇させた。
占い師が話を続けようとしたが、未希はそれだけ伺えれば結構です、と言って料金を支払った。
占い師も未希の態度の変化に気づき、それ以上説明を続けようとはしなかった。「今日は突然押しかけてしまってすみませんでした」そう言いながら、未希はバッグを手に取り出口に急いだ。ドアのノブに手をかけ出ようとすると、後ろから彼が何か言ったようだった。しかし、ドアの軋む音でそれはかき消されてしまったようだ。
未希はそんなことは気にすることなく部屋を出た。
『来なければよかった!いや、やっぱり占いになんか頼るのは間違っていたんだ。あれは紛れもなくエム君だ』今自分にどんな感情が湧き起こっているのかさえ分からないほど、未希は混乱していた。
未希は足早に階段を降りた。
二階の踊り場に着き、階段に足をかけようとしたその瞬間、軸足が滑るのを感じた。咄嗟に踏み出している足を階段に着地させてバランスを取ろうとしたのだが不運にも着地点の目測がくるった。階段にはヒールだけが乗ったような恰好となり、バランスは完全に崩れのけぞった恰好になってしまった。そして、自分の叫び声が聞こえた。

未希が病院のベッドの上で目を覚ましたのは、それから三日後のことだった。自分が何故ここに寝ているのか、未希には判断がつかなかった。
会社に行かないといけない。一瞬そう思い体を動かそうとすると右の足首に痛みが走る。頭も重いし呼吸をするたびに胸に重圧を感じる。片方の鼻の孔から管が出ているようだ。左手には針が固定されそこらも管が伸びている。起き上がるどころか思うように体を動かすことができないことを未希は自覚した。
眼球だけ動かして辺りを見ると椅子に腰かけた男の姿が視界に入ってきた。
『あの人は誰だろう…』
「あの~、」と未希は言ったつもりだったが、その言葉は唸り声にしかならなかった。
それを聞いた男は、すぐに未希の枕元にやってきた。
「気がついたようですね」男はそう言うと病室から出ていった。暫くすると年配の女性とともに戻ってきた。二人が近づくと、女性は母親だということが分かった。
「お母さん…」今度はハッキリと言葉にできた。
「私どうしたの?」未希は母親に尋ねた。
「私のこと分かるんだね」未希の母親は涙声でそう言って安心したような表情を浮かべた。
「エムさんのところの占いに行って、階段から落ちて怪我をしたのよ。右足首と肋骨を二本骨折してるって。頭も打ってるけどそっちは心配ないだろうって。だけど脳震盪が起きてるらしいわ。足首は手術したのよ」
「ふ~んそうなんだ」未希は母親の説明にどこか人ごとのように返答した。
「私会社に行かなくちゃ」未希がそう言うと、
「そんなこと心配しなくていいの。怪我をしてるから会社には行けないのよ」と母親は少し声を大きくして言った。。
「何で怪我したの?」未希の頭の回路はまだ完全に復旧さていなかった。
「占いに行って、滑って階段から落ちたの」再度母親は言った。
『占い……』、未希は暫くの間、占いという言葉を核に自分のしてきた行動をゆっくりと反芻してみた。すると、階段の踊り場で足を滑らせバランスを崩した自分の姿と叫び声をあげた光景が突然フラッシュバックした。その後足を踏み外した衝撃と背中を強打した感覚が蘇った。記憶はそこまでだった。その先から今までの間全くの空白となってしまっている。
『エムさんのところの占い…』母親からそう言われ、さっき見た男があの占い師だということも思い出した。そして、その占い師はあのエム君だということももはや疑いの余地がないことだと未希は確信した。

一週間もすると、容態が目に見えてよくなっていくのが自分でも分かった。母親ももう頻繁には顔を出さなくなっていた。足にはギブスがつけられ、胸にコルセットをつけなければならないが、あと一週間も経たないうちに退院できそうだと、医師から言わている。
病室の扉をノックする音が聞こえる。
「どうぞ」と言うと、姿を現したのは占い師だった。
「お邪魔してもよろしでしょうか?」と占い師が尋ねると、未希は「ええ、どうぞ」と応えた。
「お加減、どうですか?」
「お陰様で、もう少しで退院できそうです。それにしてもご迷惑をおかけしちゃって…。それにずっと付き添ってくれてたなんて、本当にありがとうございました」未希は占い師に対して改めて礼を言った。
「それはよかったですね。いや、ご迷惑だなんて。うちの店でやってしまったことですし責任もありますから。もっとしっかりとお伝えしておけば…、という気持ちで一杯です。部屋を出るとき僕の声、聞こえませんでしたか?」占い師が恐縮しながらそう言った。
「あなたの声ですか?」
「ハイ、雨が降るとどうしても滑りやすいんですよあの階段。実は僕も一回雨の日に滑ってるんです。幸い大したことなかったんですが。それで、雨の日に来るお客さんには帰り際に必ず念押しするんですよね。出口まで一緒に行って、滑りやすいんで気を付けてください、って。おかげで今までこういう事故は起きなかったんですけど…。でもあの時あなたはかなり急いでたようで…」
占い師の話を聞きながら、未希の脳裏にあの日の帰り際の光景もはっきりと浮かんできた。
「そうだったんですか。このことは全部私の不注意から起きたことですよ。あなたの言った通りです。でもあれですね、あなたの今までの占いで、私一番早く結果がでた人間でしょうね?」未希がそう言うと、占い師は「まぁ、そういうことになりますね」と少しハニカミながら言った。
「あの~、私、あなたに診てもらうの二回目だったんですよ」
未希は憑き物が落ちたように清々しい気持ちでそのことを占い師に伝えた。
「……。僕たち同級生だったみたいですね」
占い師の口からのその言葉を聞いても、未希はさしたる驚きを感じなかった。

深い緑が茂る木々の中に木漏れ日が差し込んでいる。ここは夏の日差しを避けるには最適な場所だ。そして三歳になった息子を遊ばせるにはもってこいの場所でもある。
息子は、木の根っこに集まる蟻ん子の動きを興味津々で覗いている。セミの抜け殻をもってきて、私にくれると言う。とりあえずはそれをありがたくもらっておく。そういうことに飽きると、息子はすぐ近くに建つビルの階段を上ろうとする。ここで遊ぶときのいつものパターンだった。その階段は私が足を滑らせて落ちた階段だ。息子は上にいる人に会いたがっているのだ。
息子が階段を三、四段上ったところで私は息子を抱きかかえた。
そして、「ダメですよ。あとでね。今パパはお仕事してますからね」、と息子をあやしながらまたビルの外に連れ出した。

「了」

hih

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