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霧の中で泳ぐ魚

霧が晴れると、魚たちは忽然とどかに消えてしまった。
それまでは悠然と泳いでいたにも関わらず、姿を消してしまったのだ…。泳いでいた場所に駆けつけてみても、魚が地面に落ちて跳ねているわけでもなかった。その場所に水辺なんて必要なかったのだ。
そこに水辺があろうとなかろうと、魚が空中を泳いでいることに何かの因果関係を見出せるわけでもないのだ。

霧の中で泳いでいる魚をもう一度見てみたい一心で、明日香は森の中をかれこれ二時間は歩き続けている。
今日で8日連続、毎朝こうやって森の中へ出向いている。今日見ることができなかったらもう諦めようと思っていた。
『あの時見た光景は、“やっぱり、幻想の中の現実だったんだ…』と思えばいい。これが私の限界なのだと…。明日香はそう自分に言い聞かせながら生い茂る木立の間をはしるけもの道を歩き続けた。梅雨の季節も相まって朝の森には湿気が満ち、霧が立ち込めていた。
つゆ草や堆積した有機物を踏みしめる時の感触も、クツ底を通してシッカリと伝ってくる。最高の条件が整いつつある、と明日香は期待した。

明日香は立ち止まり、三回ほど深呼吸をした。
高い湿度のせいで濃縮された酸素の密度と草木の放つ強い生命の香りが明日香の鼻腔を刺激した。息苦しささえおぼえるその濃密な生命力は、身体中の細胞の隅々まで行き届いていることがよく分かった。
今日の行程はいつもとは違う…。そう明日香は実感した。

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森の中に、一か所だけ明るく開けた場所が視界に入った。
あそこにしよう、と明日香は直観的に思った。
前回とは違う場所だったが、あのポッカリと丸くなって空に向かって開いている空間に、ウロコをプリズムとした魚を優雅に泳がせようと、ウキウキしながらその場所へと急いだ。
少し心臓がドキドキしているのが分かった。走ったからではなく期待に胸が躍っているから…、と思った。霧はさっきより濃くなっている。しかし空から注ぐ光の加減は申し分ない。

暫くの間、不定形な樹木の先端に縁どられた空洞を見上げていると、そこに二匹の魚の景が薄っすらと現れた。明日香は息をのんだ。
最初のうちは輪郭でしかなかったが、時間の経過とともにこぼれるような鮮やかな色彩を放つようになった。霧の粒子のせいで屈折が屈折を生み魚のウロコ一枚一枚がその微妙な光の反射を受け止め、そこからまた新たな光彩が放たれた。その詳細な美しさに見とれている間に泳ぐ魚の数は増え、いつしか群れとなっていた。
最初のうちはその群れの中の一つ一つを数えていた明日香だったが寄せては迫りくる群れの織り成す美しさを堪能することに夢中になり、もう数のことなどどうでもよくなっていた。
時間にすると20分程度だった。霧の中にできた洞窟で戯れた魚の群れは、徐々にその数を減らしていき、最後は最初に現れた二匹だけになった。その二匹は他の魚たちとは比べ物にならないほど輝いていた。明日香は、最後の二匹にありがとう、と言った。すると、その二匹も役目を果たしたことを知ったのか霧の粒子の中に同化していった…。

できた!!と言いながら明日香はゴーグルを外し、静かに机の上に置いた。明日香の得意科目は総合プログラミングだった。授業で総合プログラミングを選択できる生徒は限らていた。
基礎プログラミングと応用プログラミングをマスターし、そこに他の科目を合理的に複合させ、表現できる能力を有している生徒だけが選択できる科目だった。
16歳になった明日香は、小学校のうちに中学・高校レベルの応用プログラミングを既にマスターし、大学レベルの総合プログラミングの課題に取り組んでいた。

2020年の夏、明日香が6歳の時に、祖母と一緒にVRでみた光景を基にした空想を、身体の五感と一体となるレベルの高度VR化に挑戦してみようと、明日香は思い立った。
この一週間、当時から比べたら少し大きめのメガネほどの大きさになったゴーグルに、書き換えたプログラムを転送する作業を繰り返したが、霧と魚の関係性をどうしてもうまく構成できなった。物語が完結しないうちに霧が晴れてしまい、と同時に魚は突然消えてしまう。自分の望む世界を構築するには…、単純にテクノロジーの問題なのかとも思い明日香は諦めかけていた。しかし、魚をうまく出現させることができるのだから……、今日、もう一度試してダメだったらある程度のところで妥協しようと明日香は思っていた。
ただ諦めきれない理由がもう一つあった。それは祖母への想いだった。明日香には祖母のVRでみせてもらった、池の中で優雅に泳ぐ魚の美しさを…、今度は自分が幻想的な作品に仕上げて、その美しさとリアリティを祖母に体験させてあげたいという思いがあった。

机の上にあるゴーグルをケースに納め、小さな端末をリュックに入れた明日香は家の玄関を出ようとした。
「どこへ行くの?」
キッチンの方から母の声が聞こえた。
「おばあちゃんの所」
明日香は声を弾ませながら母の問いかけに応えた。

「了」

hih

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