見出し画像

酒飲みが上手な先輩

大学時代の先輩に、酒を飲むのがとても上手い人がいた。酒を飲むのが上手いって...、何だかおかしな表現だと思うかもしれない。しかし僕の中ではその言葉が一番ピッタリとくる人だった。

周囲を和ませる...、それもあるがそんな単純なことではない。ジョークや豊富な話題でその場を盛り上げるようなムードメーカー的存在でもなかった。あることを熱くなって議論するようなタイプでもない。先輩はどちらかというと、節太の手に持ったグラスを黙って傾けている方が多かった。だからと言って一人ニヒルに決め込んでいるわけではかった。

人の話など聞いていないようだが、先輩は絶妙なタイミングで、ふっと何かを思い出したように、一言二言言葉を漏らす。すると今まで自分たちの話に夢中になっていた周囲の人間でも、必ずその言葉に耳を傾ける。そこで少しの間があき、またそれぞれの話に戻っていく。「そういえば、○○さん、さっきこんなこと言ってたよな...」帰る途中、気づけば忘れ去られていた言葉が各々の口から洩れる。それは一人帰路につく者の脳裏にも再来する。

サークルの夏合宿でキャンプをしている時、「川で冷やされたビールが喉を通るとき、川の清涼感がそのまま伝わってくるな。やっぱり自然の中で飲むのが一番旨い!」と、大きな喉仏をうねらせながらビールを飲む姿に、先輩の器の大きさを感じた。社会人になって、先輩のお気に入りのバーに連れられていくと、「やっぱり、こうやって静かに飲むのが一番だよな」としみじみ言う。先輩の家にお邪魔して、奥さんの手料理を肴に飲む時は、「やっぱり、カミさんの手料理で一杯やるのが一番だよ...」と嬉しそうに言った。
そう、先輩が飲む時は、どこで誰と飲んでいてもその瞬間が一番だった。あの時とこの時を比較しながら飲むようなことをしない人だった。

あることで僕はとんでもなく落ち込んだ時があった。そのことを先輩に相談したことがある。すると先輩はいつものバーに僕を誘い出す。席に着くと、「俺はウイスキー、ロックで...」と先輩が注文する。次に僕が注文を伝えようとすると、「あっ、こいつにはオレンジジュースでね」と、僕の分のオレンジジュースを本気でマスターに伝えた。マスターもその注文を真顔で受け、僕の前にオレンジジュースを置いた。「いや、僕も...」と言いかける僕に、先輩は「悲しいときや辛いときに酒は似合わん。酒っていうのは楽しいときや嬉しいときに飲むのが一番だ」と呟いた。そんな先輩ワールドに引き込まれた時点で僕の悩みは半分解決されたようなものだった。
そうやって先輩とはもう二十年以上も付き合ってきてた。そして僕はことあるごとに酒の飲み方を先輩から教わってきた。

しかしある時、先輩の教えを破った時があった。それはどうしようもない悲しさが僕に襲いかかってきた時だった。その夜僕は喪服のネクタイが涙と涎で汚れることなどお構いなく泣いた。浴びるように酒を飲み、まるで子供のように号泣した。そこにはそれを諫めてくれる先輩の姿はなかった。いや、先輩はそこにいたが、近くで僕が泣きじゃくっていても、先輩は白装束でただ静かに僕の傍らに横たわっているだけだった。もう楽しい酒を飲める日なんて永遠にやって来ないと思いながら僕は永遠と泣き続けた。

あれから7年、僕は先輩が通い詰めていた馴染みのバーに時折顔を出す。予約など一度もしたことはないのだが、僕が行くときは、いつも不思議と先輩が座っていた席は空いている。僕が席に着くと、何も言わなくても先輩が一番最初にオーダーしていたウイスキーのロックが僕の前に出される。そして、「今日は、どんな良いことがあったんですか...?」とマスターが一言、僕に話しかけてくる。僕は「うん...、まぁ...」と言いながら、壁にかかる先輩の写る小さな写真に視線を向ける。

僕は先輩の歳をとうに超えてしまった。酒を飲む極意をマスターしたわけではないが、少しなら先輩の教えを実践できるようになったような気がする。ここでは嬉しいときの酒しか飲まないと決めている。何故かって、ここでこうやって先輩と一緒に飲んでいる時が一番しあわせだと思うからだ。

hih

「了」

#ここで飲むしあわせ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?