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マサル君

「マサル、っていうんだ。そいつの名前」
「覚えてるんですか?」
「ああ、忘れられんね…」

ジャスのBGMの音量があまり届かないバーカウンターの片隅で、マスターを相手に人生も半ばを過ぎた中年男が、このところ、その人生も少し狂いかけていることに対して一人ごちていた。
まだそんなに呑んでいるわけでもないが…。今日はペースが速い。そして、男の呂律がすでに怪しくなっていることをマスターは感じていた。
「もう一杯、同じもの!」
男は少しつっけんどんに、空になったグラスを突き出した。
「ハイ…」マスターは返事だけすると、いかつい氷の塊をアイスピックを使って器用に成型し始めた。準備する作業をいつもよりワンテンポづつ遅くするように心がけ、バーボンのダブルロックを仕上げた。
マスターが作るロックには気品が溢れていた。濁りのない水晶のように球体となった氷が琥珀色の水面から頭を出し、ゆったりと回転しながら浮かんでいた。ずっしりと重いクリスタルグラスに氷があたる音は、教会が奏でる鐘の音よりも神聖なものに聞こえた。

今はしがないバーの経営者となっているマスターだが、若いころからバーテンダーの世界大会で何度も優勝し、世界の一流ホテルのバーを渡り歩いた。帰国してからも、やはり一流ホテルのバーで長い間勤め上げた。
世界の要人やハリウッドスターが来日したときは、必ずといっていいほど、マスターのいるバーに足を運び、マスターと語らいながら静かな時間を過ごした。人の愚痴を聞くことも仕事のうちだった。客の話を聞きながらいつの間にか、魔法のように最高の飲み物を作り上げてしまう。そんなことをもう数えきれないほどこなしてきた。
そしてマスターは、腕のいい心理カウンセラーに引けを取らないほど、自然と人の心に寄り添うことができる達人となっていた。

「そのマサル君という方とは随分と仲が良かったんですね。どんな子だったんですか?」マスターはその転校生のことを尋ねた。
「マサルはねぇ、勉強もスポーツも遊びも、何をやってもダントツだったんだ。だからクラスの、いや学校中の人気者だったよ。女子も男子も関係なくみんなマサルのことが好きだった。マサルもみんなのことが好きだった。不思議なことに、マサルが近くに来るだけで辺りが爽やかで温かい空気に包まれている感じがするんだよ。とても心地よかった気がする。それも演出じゃないんだ。嫌みなく、あいつ無意識のうちにそんなことをやってのけるのさ」男はロックグラスの中で漂う氷を眺めながら当時のクラスメイトだった少年のことを語りだした。
「そういう子いますよね。神がかっているっていうか、天賦の才というか…。その親友だった優秀な子が転校しちゃった…。何年生の時だったんですか?」マスターは、この男の心境を覗いてみたくなった。
「小学校4年生の時」男は躊躇なく答えた。

「よっぽど寂しかったんですね」
「寂しいっていうより、僕の中に何だかボッカリと空洞ができちゃったようだったな。あいつと一緒に何かやってると、僕も同じように何でもできる気にさせてくれたんだよ。一心同体ってやつさ」
男がマサルのことを語るとき、一瞬素面に戻っているようだと、マスターは思った。
「でも珍しいですね。転校生って、転校してくる子のほうが印象深いですけど…、転校していく子のことは忘れがちになりませんか?私も何度か経験がありますけど、やっぱり転校してきた子の方が印象に残ってますよ。よくそこまで…」
「ああ、そうだね。だから僕も今までマサルのことはほったらかしてしまったんだ。でもマサルは特別だった」
そう言う男に向かって、マスターはニッコリと笑顔を返した。
「その後、マサル君とは一度もお会いすることはなかったんですか?」
マスターは男に尋ねた。
「あれ以来、まったく会ってないよ。ほかの友達にも聞いてみたが、マサルの情報は全く入ってこなかったな。でも、あのマサルのことだから、きっと自分の思うように生きて成功を収めてるに違いないんだが……」
「そうですか…、でもよかったですね!」
「何が…?」男は少し顔を歪めてマスターに問いかけた。
「マサル君と再会できてですよ!」
マスターは唐突に、男にそう切り出した。しかしその表情はとても穏やかで優しいものだった。
「えっ…⁈」男は驚いた表情でマスターの顔を見つめた。
「少し時間がかかってしまったかもしれませんが、マサル君、もう戻ってきてくれてるじゃないですか。これからは全て軌道に乗るんじゃないでしょうか…」マスターがキッパリそう言うと、男の顔が緩んだ。

「僕は多分、その頃に自分の中の本当の自分をどこかに置き去りにしてきてしまったような気がする。何故そうなってしまったのか自分でもよく分からない。それ以来、そして歳を重ねるたびに生きるのが辛くなっていったよ。今になって、しきりと鮮明に当時の自分のことがしきりと頭に浮かぶんだよ。しかし何で分かったんだい?僕の少年時代の話だって?」
男がマスターにそう尋ねると、
「ええ、分かりますよ。爽やかで温かくて気取らなくて器が大きい…、ここにお越しなるたびにそう感じていました。お客様は、お客様の話したマサル君の印象そのままですから。決して営業トークなんかじゃありませんよ。こう見えても、私、こうやって何万人もの方のお相手をしてきましたので…」

男が空になっているグラスを少し挙げ、お代わりを促すポーズをすると、マスターは穏やかな笑顔と共に「ハイ…」と言ってそれに応じた。

hih

「了」

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