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「音ゲーは上手くならなくても楽しい」は本当か?音楽ゲームの上達と楽しさの変容──初心者と熟練者の視点の違い

X(旧Twitter)上では、今日もゲーマー同士がお互いを煽り合い、刺激しあっている。私がよく見かける議論は、初心者(及び中級者程度の実力で止まっている人)の「ゲームは上手くならなくても楽しい」という主張と熟練者の「上手くならないと本当の楽しさはわからない」という主張の食い違いである。

さて、音楽ゲーム(以下、「音ゲー」)は、リズムに合わせてボタンを押すことでスコアを競うゲームジャンルの一つである。初心者から熟練者まで幅広いプレイヤー層が存在し、それぞれのプレイスタイルや楽しみ方は大きく異なる。本稿では、音ゲーの上達過程における楽しさの変容を「熟練度と楽しさのグラデーション」という視点から整理し、初心者と熟練者の楽しみ方の違いを論じる。

1. 音ゲーの楽しみ方の3段階

音ゲーをプレイする際、楽しみの形はプレイヤーの熟練度によって変化する。本稿では、この楽しさを以下の3つの段階に分類する。
1. ①初心者的な楽しみ(未熟な段階での楽しみ:根源的)
• 曲を聴きながらプレイすること自体が楽しい
• 画面の演出や音楽に合わせてボタンを押すことに没入する
• 多少ミスをしても気にせず、「遊んでいる感覚」を楽しむ
2. ②熟達による楽しみ(上達したことによる新たな楽しみ)
• 難しい譜面をクリアする達成感
• コンボを繋げることやスコアを伸ばすことの充実感
• 指の動きやリズム感の向上を実感することによる楽しさ
• 熟練度が上がるにつれ、上達スピードは対数関数的に下がっていくため、この楽しみは減少する
3. ②’ 極限状態での楽しみ(トップレベルに達したプレイヤーの楽しみ)
• 高難易度の譜面を最適な指の動きで処理すること自体が快感になる
• 精密なスコア管理やフレーム単位の精度を極めることに喜びを見出す
• ①のような「気軽な楽しみ」はほぼ消失し、競技性、希少性の高い楽しみへ移行する

この分類から分かるように、音ゲーの楽しさはプレイヤーの熟練度に応じて段階的に変化する
①の楽しみはプレイヤーのレベルに関わらず得られるものであるが、②’の状態に到達したプレイヤーは①のような気楽な楽しさを感じにくくなる。また、②の楽しみは初心者や中級者であるほどクリアランプやスコアの更新がしやすく、熟練者になると一つ一つの更新のハードルが上がり感じにくくなる。そのため、熟練者は②'の楽しみに価値を見出すようになりやすい。
一方、初心者や中級者においては②’の楽しみを理解するのは難しい。
これが、音ゲーにおける「楽しみの変容」の本質である。

2. 熟達者と初心者の視点の違い

音ゲーにおいて、初心者と熟達者では楽しみ方だけでなく、「何をもって楽しいと感じるか」の視点自体が異なる。

①の視点を持つ初心者は、②’の楽しみを理解できない。
初心者は「音楽に合わせて適当にボタンを押す」だけで楽しいと感じるが、熟練者の視点から見ると、これは「正確なリズムを取れていないため、ゲームとしての本質的な楽しさを味わえていない」状態に見える。初心者にとっての楽しさは、熟達者には「未熟ゆえの楽しみ」と映るため、②’の視点を持つ人が①の楽しみを再び感じることは難しい。

②’の視点を持つ熟達者は、①の楽しみを見失う可能性がある。
熟達者は、「フルコンボ(ミスなし)」や「高スコア更新」といった高度なプレイを目指すことで楽しさを感じるが、それは競技的なプレイに近くなる。そのため、単純に「曲にノる」「適当にボタンを押して楽しむ」といった①の楽しみ方だけでは満足できない。これが「音ゲーの極限レベルに達したプレイヤーが初心者の気持ちを理解できない(していない)ように見える」理由の一つである。

3. 極限レベルの楽しみは別次元のものとなる

この議論を踏まえると、「上手くないと楽しめない」という熟達者の発言は、②’の視点からのものであり、①(及び②)の視点だけを持つ初心者には理解しづらい。

熟達者にとっては、「正確なリズムを刻む」「指を最適な動きで制御する」「できないことが当たり前のことを、どうにかできるようにする」「圧倒的な物量に押しつぶされる」こと自体が快感になり、それが②’の極限状態の楽しさに繋がる。これは、①や②とはまったく異質のものであり、単に「上手くなるとより楽しめる」だけでは説明できない。むしろ、①の視点に立つ人にとっては、②’の楽しみ方は「苦行」に見えることすらある。陳腐な言い方をすると「マニアック」な楽しみである。

一方で、②’に到達したプレイヤーも、過去の①的な楽しさを完全に否定するわけではない。ただ、彼らが享受する「精密なコントロールの快感」や「できないことが当たり前のことを、どうにかできるようにする」、「圧倒的な物量に押しつぶされる」ことは、①の段階では決して味わえない種類のものだ。そのため、「上手くなるとより楽しめる」という言葉が、初心者の考える「楽しさ」とは異なる意味を持つことに気づく必要がある。

この②'の楽しみは、「この段階に到達していない人に伝わらないからこそ価値がある」ものであり、優越感ともとれる。だからこそ、多くの場合、他人に対してマウントをとりたいがために、②'のような「一部の人間のみが享受し得る楽しみ」がコミュニティの中に発生することとなる。
熟練者はその実力を以て、②'の楽しみを見出せていない初心者や実力が停滞している中級者に突きつける。それに反抗して①の楽しみが重要という至極当然の反論が発生する。短絡的だが、そのような流れで、よくある構造が発生しているかもしれない(この記事は、そのどちらが良いのか、悪いのかを考察・主張したいものではないことを申し添えておく)。

4. まとめ

本稿では、音楽ゲームの楽しさの変容を「熟練度と楽しさのグラデーション」という視点で整理した。その結果、以下のような結論に至った。
音ゲーの楽しみは、①(初心者的な楽しさ)→ ②(熟達による楽しさ)→ ②’(極限状態の楽しさ)と変化する。
熟達度が異なるプレイヤー同士では、楽しさの基準が異なり、理解し合えないことがある。
特に②’の極限状態の楽しみは、初心者の視点からは理解しがたく、①の楽しみとは本質的に異なる。
一方で、熟達者は①, ②, ②’の全てを経験しているが、②’に到達すると①や②の楽しみを実際には感じにくくなる。

このように、音ゲーの上達は単なるスキル向上ではなく、「楽しさの本質の変容」を伴うプロセスである。初心者が熟練者の楽しさを理解できず、熟練者が初心者の楽しさを見失うことがあるのは、この変容が「質的な違い」を生むからだと言える。

音ゲーに限らず、スポーツや芸術、競技的なゲームでも、このような「熟練度と楽しさの変化」は見られる。したがって、本稿で示したフレームワークは、幅広い分野に応用できる概念である。
ピアノを例に挙げると、初めは鍵盤を押して音が出ること、下手くそだけど曲が弾けるようになること、どんどん上手くなることなどが楽しみであったのに、いつしか"完璧に"弾くことが当たり前になってしまって、一方で、自分が求めている演奏にはいつまでも届かず、以前のように純粋な、根源的な楽しみを見失ってしまう。初心者の演奏を聴いても何も面白くない、と。

今、あなたが音ゲーを楽しんでいるなら、その楽しみがどの段階にあるのかを考えてみてほしい。自分の楽しさが変化していくことを理解することで、より深く音ゲーを味わうことができるかもしれない。

そして、大切なのは自分自身の考えと違った考えを持った他者を安易に攻撃するのではなく、その違いはどのような視座の違いから生まれているのかを考えることではないか。

備考

この記事は友人との議論をもとに、ChatGPTを用いて生成しました。
ここまで読んでくれてありがとう。

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