「運命の打率はほぼゼロ割でも、いつか」
12月3日
今朝、ありがたいことに「コボシさんがスキしました。」というメールがあって、3年前に書いた記事にスキが付いたようです。
「そうじゃないからただ隣にいる人を」というもの。正直自分で書いたことだけど、全然内容を覚えていなくて、興味本位で読んでみました。
すると、案外よかった。
ずっと昔に書いたものだから期待していなかったのだけど。もちろん文も繋がりはモタついていて正直読みにくいのだけど、最後まで読むと伝わるものがあった。
まるで子供が拙い言葉で喋っているようで。そこには主張がはっきりしていて、もしかすると今書いている記事よりもいいんじゃないか?とさえ感じる。
最後まで読むとちょっと心がちょっと温かくなるのでした。「伝えたいことがある」、それが大事なのだと思う。
文章との向き合いかたを改めて意識させてもらえました。コボシさんありがとう。
そして翌日。
ふと以前から書き直したいと思っていた記事に再読をした。「書くことってこういうことか」という感覚を覚えついるうちに書き直してみたいと思った。
「真っ白な画面に立ち向かっていく」という記事で、それは多分もっと閲覧数が増えてもいいと思っている。
そしてやってみるとすこし良い感じに直せた。
この記事はポテンシャルがあると思っています。(親バカならぬ、作者バカですね。)
そして、書き終えたとき
「運命」ってこういうものかなと思った。
強引かもしれませんが。
そこに一連の流れがあるのです。「コボシさんからスキが押されました」とメールが届いて、そこから気にかかっていた「そうじゃないからただ隣にいる人を」を書き直せて、その流れがスムーズ。
こういうのを運命に導かれているっていうのかな?
まるで点が線につながっていく感じ。
社会人になってかれこれ10年経ちますが。
人生を変えるような「運命」に出会えていません。正直、たまにコレはと思うものはありますが、気づけば何もなく消えていく。
まあ人生ってそういうもの。結局、振り返ってみて、運命っぽいと思ったら運命だし、そうじゃなかったら運命ではなくただの気のせいだったのだ。
(誰かと付き合うとか、この人と結婚するのかもっていう直感とかそうだと思う)
つまりは結果次第、後付けで運命かどうかって決まる。
だからね、やり続けるしかないんだよ。コレは!と思うものがいつか本当に人生を変えるまで。
いつかこの「崖っぷちサラリーマン」がバズったりしたら、そこに至るまでのすべに運命があったということだ。
とりあえず
必死で暮らしてその努力の先に「運命だ」という現実がくるまでやり続けていけるしかないのだ。さて、みんな頑張ろう。
僕ももういっちょ頑張ってみようと思います。
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