「こここそが僕らの場所」
人間の居場所ってどこなのだろう?
35年間生きてきて、2回ほど「ここが本来の居場所だ」と感じたことがあります。
まずいつなのか、という話ですがそれは中学3年生のときの教室と、29歳のときに出会った友人の隣でのことです。
そのどちらもが毎日楽しくて、心から「僕のいるべき場所だ」と思えた。それが目印なのかもしれない。
まずは中学3年生のとき。
それが初めて感じたときになるのですが、卒業という最後を捉えたとき、「現実」を受け入れることができず咄嗟に抗議文を書きました。
「春休みも学校を開けてください」と。
だけど翌日担任に呼び出されて「気持ちだけを大切にしなさい」と諭されただけで終わりました。
2月になんだかよく分からない花を貰ったな。
そして卒業式の日。
あっさりと終わって、実感もないままに翌日から学校に行かない日常になりました。熱が出て、そのときちょっとだけ日々に触れたのを覚えている。
春休みの中頃だったと思うのですが、一度だけ友達と学校に行って、こっそり教室まで上がってみました。
当たり前なのですが、春休みで教室は鍵がかかっていて。
そしてショックを受けたのですが、中は片づけられていてもう僕らの場所ではなくなっていたなです。それは新しい学年のためのもの。
本当に悲しかったな。卒業式では泣かなかったのに、そのとき初めて泣きました。
そしてそれから、10年以上が経って、29歳になるまでふらふらとなんとなく生きていた。
そしてふとその気持ちは訪れた。本当にひょっこりそれは日常のなかにあった。
そしてしっかり大人になっていたので、ちゃんと気持ちを言葉に変えられる。
「この人といられるなら何も怖くない」ということです。
その女性と巡り会ったのが、本来のあるべき姿だと思えた。
簡単に書くと、お互いになにを考えているのか常にわかって、目配せですべてが伝わりました。
しかし結局、僕は勇気を持つことができず彼女は東京に行って、僕は広島に残ったのです。
つまり、また手放してしまったのだ。しかも中学3年生のときと違って、手に入れられるものだったというのに。
今でも後悔しています。
どうしてこんなことを思い出したかというと、数週間前に「仕事を辞めようか悩んでいる」と、部下から相談をされたから。
その相談のあった夜、もし彼女が職場からいなくなったら寂しいなーなんて考えつつ、ベランダに出て近所の川を眺めていると、この「本来の居場所」というものを思い出しある。これを見つ出すには、おそらく魂の直感を信じるしかない。
今の世の中は、雑多な社会にいきていて、確信できる場所にめぐり合えない暮らしている。
日本には数千の企業があって、それに属したり属さなかったり。引っ越だったり、死別だったりもある。
そうやって蠢いている世の中で「成り行き」で居場所を決めているけど、「こうしよう」という魂の声に耳を傾けたらちゃんと、それぞれに用意された場所があると思うのです。
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