それは幻想。平凡な人間だったでしょ?
さてさて、お盆に1人で鳥取県にある大山に登っていたことを書きたい。
8月のシフトを考えているときに、おっ5連休がある、と気づきまして、そこでなにかしようと思ったわけです。
何年か前に立ち読みをしたなかに、無酸素単独エベレスト登頂を挑戦した栗木さんの著書がありまして、どこか頭の中に登山をすれば別世界を見ることができるというイメージがありまして。
極夜行という最近買った本のなかでも、それに似た探検的なことが書かれていて、元々、そういったことが好きだったこともあって、無意識に登山を選んだのだと思う。
そこでネットで調べてみると鳥取県の大山がちょうどよさそうで、そこに決めました。
片道3時間で登れるし、山頂には避難小屋があってそこで泊まることもできるらしい。ネットにある写真を見るとロケーションもよさそうで、ここぇ寝泊まりができるなんて最高だ!と決めました。
市内にいって登山用品店で、店員さんと一緒に相談しながら準備をしていったのですが、
考えてみれば当然なのだけれど、1つだけ言われてハッとしたことがあって。それは水道もシャワーもないから、すべて持っていかないといけない。
飲水も寝袋もすべて必要なものは担いでいかないといけない。便利さを当然だと思っていたぼくはそういった環境にいけることも楽しみになって、よりワクワクとしました。
そして登山用の服から、お湯を沸かすためにバーナーや、寝袋やマット、合計10万円近いお金を払ってその他諸々準備を整えた。
そして当日、息を切らしながら1700mの山を上ると、そこにはほんとうにきれいな自然がありました。
本来の地球の姿が残っているという感じ。
そして想像していた通りの夕日、そして星空、朝日と、初めて太陽を見ているかのように感動をし、木道の上からじっと眺めていました。
だけどそのとき、実は自分は凡人なのだなあと思わされたのでした。
どういうことかというと。
ぼくはうっすらと期待していたのですが、そこには本で読んだような栗城さんなドラマティックなことはないし、テレビでみるような人生観が変わるようなこともありませんでした。
(標高1700mの植物層の変わる場所)非日常的な感動に出会えると思っていたのに、そのとき太陽や星空を見つめながら、平地にいるときとあまり変わりのない精神状態の自分がいたのです。
それは、これからほくがどこに行こうが、感動をしないことを証明をしているような感覚でした。
小さな頃。元からあまり感動をしないし、他人に興味をもてない人間でした。そのことを思い出した。
でもそれでいいんです。
無理に感動をするのも変だし、そのまま山頂からの景色を眺めていた。
下山をして麓の温泉に使っているときに考えたのだけど、そもそもはそういう性格だし、幼い頃、他人に興味を持つことがなかったし、ゲームばっかりしていた。
そういう自分が続いてい流だけということ。
蛇足になってしまうかもしれないけど、もうすこし補足をしたい。
きっと大人になっていく中で、ぼくは人生への理想とかこういう人間になりたいという思いがあって、たまに自分はなにか持っている人間だというエピソードがあると、棚に並べていた。たまに心の中でそれを見返しては、やっぱり自分はいつか他人とは一味違うんだと思い込んでいた気がする。
忘れていただけで、だけど平凡な自分が真実です。なんだかすごい、と思われたくて、そう思い込んでいたけれど、ぼくはやっぱり世間から注目をされるような才能もないし、すごい人間になりたいとは願ってはいるのだけれど、凡人のDNAだということは変わることがない。
そして、あっやっぱりただの自分がいるだけじゃんと。でもそれでいいんじゃないかなと思った。
これから自分はまだこの身体でもう少し生きていくのだ。それが楽しみになった。
自分は自分、ほんとに大衆のなかの一人てしかない。
こうありたいといろんな試行錯誤をして、元々あった形を忘れていた気がする。
そしてこうして平地でまたカフェでnoteを書いています。ありのままを忘れないように。
そう思ったのでした。
終わり