「地平の果てでたまたま生えていた雑草に自分の飲み水を与えられるか」

終末期医療に携わらせてもらって思うのですが、「最後は愛していたい」と思う。これがなかなかムズカシイ。
 
ここ数日、どうにか記事を書かないと、と思っていたのですが、なかなかかけなくて。このテーマをスマホで考えていたら、いつの間にか考えが変わっていて、これは面白いぞとなりました。それでは記事を公開してみようと思います。
「地平の果てでたまたま生えていた雑草に自分の飲み水を与えられるか」、ぜひよろしくお願いいたします!
 
ではポイント。
最初に書いたように「愛される」のではなく、「愛せる人になりたい」というところ。
これはたまたまかもしれないが、知り合いと話していると、「最後まで愛されたい」と願っていることが多い。ただしこれは自分がそうだったからかも。相手を誘導しているのかな。
ともあれ、そう願っている人は多い(たぶん)。
これは他にも当てはまるはずで、若い人でいえば「甘やかしてくれる人がいい」とか「頼りがいのある人がいいな」と期待をする。または、保育士さんであれば「子育てに協力的がいい」とか「教育に理解のある人がいい」と期待をするのかな?
 
まぁそれぞれの経験を元にパートナーに求めるものがあると思うのだが、それが僕には「最後は愛されたい」だったのだ。

でもそれは考えれば考えるほど不確かなことだと思って。

まあというのが、見抜けないよねっていう。

これまで仕事で見てきたけど、やっぱり50、60代となった壮年期の方々の看護・介護現場は思っていた以上に現実的な場所です。
若いならまだいいですが、
静けさで殺伐とした老夫婦の家で暮らすようになって、ずーっと一緒にいた人に「愛情を持つ」なんてことはかなり難しい。

でも、たまにいらっしゃるのです。マザーテレサかな?と思うくらい、素敵。

それは例えば、誰いなくなった地平の果てで、自分の明日の飲み水をたまたま生えていた雑草に与えているような感じ。
見返りとか欲望とかほとんど持っていない年齢で、隣にいるパートナーへ最後まで愛情を持とうとしているのだから。

ほんとに美しい姿です。

たぶん、200例あって1組いるかいないかくらいの確立。

そういった姿を見かけると、自分もそういった夫婦になりたいと思う。

 
では、そんなパートナーとどうやって結婚をするのか。
若いうちに見抜くのは無理です。
では、何ができるかな?と考えたときに、自分がそうあろうとすること。将来に約束できるのはそれだけ。自分がそうあろうとすることだけはハッキリしている。
 
もし80歳を過ぎたときに、結婚をした相手がぼりぼりケツを掻きながら「あんたそこの大福取ってー」というような人だったとしても、最後まで愛する。そういう自分でを育てるということです。
どれだけイラっとしようとも、その人を心に決めた人生を愛するのです。それが人生で唯一できる、そして確かなことだと思ったのだ。
 
「結局そんなオチかよ」と思われたかもしれません。
将来のことって、自分でやれることしか「確かな事」なないのだと思ったのでした。そして、そうした果てにああいった素敵な夫婦はあるのだとも思っています。

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