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祖父母の一回忌で勝手に思い込む。

さて、宴黙で算数ドリルが好きだった僕は、子供の頃、よく一人で留守番をしていた。自然と「死んだあとはどうなるのだろう?」と考えていて。

そして大人になってもたまに考えて、noteに何度かは書いたけれど、うまく書けたことは1度もない。 

どうしても書きたい、ということじゃないし、誰のためにもならないエッセイだと気づいたから書く必要もないと思っていたけれど、この2024年5月4日。ゴールデンヴィーク中に祖母の一回忌があって、ふと「死」に触れたことでまた書きたくなった。
「死んだあとはどうなるのだろう?」

大した内容ではない。

途中からホント独りよがりのエッセイでつまらないので、すみません。


では一回忌のときのこと。
読経を終わって身内(親、叔父叔母、従姉妹たち)の9人で話していると、叔母ちゃんが浄土真宗の考えは「即身成仏といって死後すぐに仏になるのだ」と教えてくれた。

「へー」

「でも、お爺ちゃんは『死んだら終わり』と言っていたから、そこは少し考えが違っていたみたいだけどね。」

どうやら「死」とうものをお爺ちゃんはあっさりシンプルに認めていたらしい。
久しぶりの祖父母の家は雑草が庭から生えていて、壁際にはお爺ちゃんお婆ちゃんの写真がある。「死後の世界はあってもなくても、死んだあとは終わりだよー」とお爺ちゃんが言っているようだった。



お爺ちゃんは寡黙な人で、何に対しても執着をすることがなかった。「死」というモノに対してもあっさりシンプルな考えだったよう。


そこからみんなで骨をお墓に納めに行って、その夕方に外食をしようとなって車を運転しているとき、やっぱり「生きているというのがたまたまの結果」だとは思えない気がした。

こうやって会話をしていることが、ただのニューロンによる現象なものなのか・・・?

占い番組とかで言われているようなハッキリとした運命が欲しいわけじゃなくて、「こうして意識を持っている」ということには理由が欲しい。


夜空を見上げるときに、そこに宇宙があって、これまで何億年と経っている空間が広がる。偶然、分子同士がぶつかってこんな生命体が生まれるのは、どれだけ低い確率なのだろう。

「シュレーディンガーの猫」という思考実験でいえば、
こうして僕らが
「空を眺めているから空があるのであって」
「宇宙があると感じているから宇宙はある」
誰も確認しなければ、ただの可能性の状態で終わる。

「宇宙」は誰も知らないまま数億年という長い長い歳月の果てに消えていたかもしれない。

だから、こうして生きているのは「大きな流れで見たときの必然」であるような気がするのだ。



仏間でお仏壇の前でお香の匂いを嗅いでいるとき。「りょうくん、よう来たねぇ」とお婆ちゃんの声が聞こえてきそうな気がした。

というよりは聞こえたかった。
だけど、もちろん聞こえはしない。

1年ぶりの祖父母の家はひっそりとしていて、次そこに行くのはまた当分先。やっぱり生れてきた人間にはそれぞれ微かな意味が灯っていて欲しいと思いたいのでした。

終わり。

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