【論文】挙国一致内閣の誕生と貴族院
という論文を『青山史学』第38号(2020年3月)で発表しました。
普段ならば図書館でぜひ手に取ってください、というところなのですが、いかんせんそんな時節柄でもなく。そう遠くない時期にリポジトリでも公開される予定なので、その時にまたご案内させてください。
【追記】リポジトリで公開されました。リンク先からダウンロードできます。(2020/08/13)
本稿が問いとしているのは次のような感じ。論文の方では先行研究を踏まえてきちんと書いてます。念のため。笑
①政党内閣崩壊後の貴族院って何をしていたの?
②確かに挙国一致内閣は政党・軍部・官僚の勢力均衡が目指されたけど、そこでの貴族院はどういう位置付けなの?
③挙国一致を謳ってはいても、議会審議において内閣と衆議院、内閣と貴族院、あるいは衆議院と貴族院が対立する可能性は十二分にあり、そしていくつかの組み合わせは実際にあって、その時、貴族院はどうしたの?/どうすることが期待されたの?
この延長線上に、大政翼賛会と貴族院とか戦時議会と貴族院とかの検討を考えているのだけれど、いきなりそれを着手するのはなかなか簡単ではないので、まずは昭和7年5月の斎藤実内閣誕生と貴族院について、さしあたり内閣・貴族院・衆議院の三者間の関係から検討してみよう、というのが今回の試み。なぜなら、斎藤内閣の閣僚には貴族院の院内会派で最大勢力の研究会から一人も閣僚を得ていないのに(政務次官と参与官には複数名輩出)、貴族院側は挙国一致にどう関わっているの?とか思ってしまったので。。。
確かにこの20年ほどで貴族院の政治史的研究はかなり進んだのですが、それは明治から大正期が中心で(念頭に置いているのは下記の諸文献)、昭和期のそれはまだまだ分からないことだらけ。初期議会期のような、民党に立ちはだかるかつての「藩閥政府の藩屏」イメージで昭和期のそれを理解することはできないし、それは、これまでの研究の蓄積を無視したものになってしまう。
もちろん、五・一五事件後は議会政治の重要性が相対的に低下している(と言われてきた)し、さらに”非民選”の議院の研究をやっても……というのも分かるのですが(事実、それが研究が進まなかった大きな理由の一つだったはず)、一方で、近年は衆議院・政党側を対象とした戦時議会研究がかなり進んでいるので、それに対して貴族院はどうなの? もう少し単純化して言うと、衆議院・政党を見たら当該期の帝国議会を理解したことになるのか? という問いは十分あり得るし、これまでの(自分の)研究の発展としても避けては通れないテーマだなぁ、と。それならば積極的にチャレンジしてみよう、と。
そういう意味では、本稿は、これまでの自分の研究の”エピローグ”でもあり、これからやりたいことの”プロローグ”になりました。まぁ、プロローグの次をどうするかまた苦戦しているのですが。。。笑
ご高覧いただく機会がありましたら、ご感想・ご意見などをいただければ幸いです。
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