よなよな29 自由について
ばな子
生活の中の自由
森博嗣先生が国外に越してほぼ引退すると聞いたとき、周りの編集者はあまり本気にしていなかったのですが、私は同じ仕事をしているからこそその気配に「この人、本気だな」と思いました。
会食しながら「来年からはもうこういう会もなくなりますからね、これが最後でしょう」なんて言ってるのに、編集の人は「まあ、ふふふ」と笑っていてびっくりしたのを覚えています。なんていうか今見えているものが変わる可能性に対して閉じている感じでした。
社会とのかかわりを最小限にして思う存分工作をするみたいなことをおっしゃっていたので、「そうは言ってもこれまでに役立ててきた工学の知識だとか、本でシェアしてきた考えだとか、このまま黙ってしまうのはもったいないのでは?」みたいなことを伝えたのを覚えています。今思うと私もまだ若くて、「いやなつきあいも仕事のうち」みたいな感じを持っていたんだろうなと思います。業界に洗脳されていたというか。今なら完璧に森先生のそのときの気持ちが理解できますし、私が半引退すると言ったときにも、当時の私のようなことを言う人は少なくなかったです。
そもそも森先生はそこまで閉じる気はなくて、専門分野での知識は求められれば専門分野できちんとわかちあっているし、ジャイロモノレールの研究も進めているし、本は前以上に人に伝える内容になっているし、社会全体は森先生の才能に関して全く損していない。ただ、打ち合わせだとかプロモーションだとか人づきあいだとか、そういうものをきっぱりなくしただけだったんですね。
私もしがらみの多い業界にいるので、「それってできるんだ!」と希望を持ってから10年くらいかかりましたが、やっと少しずつ隠遁に近づいてきました。
自由って、ものすごく考えてちゃんと実行して試行錯誤すれば、かなりのところまで手に入れられるんです。
そして自由ってまさに、大きく羽ばたいたり引っ越したりたくさん恋人を作ったり海外に行きまくることなんかじゃなくって、まみちゃんのしていること、「うちだと脱水は欲しいな」その判断のことなんですよね。
もしひとり暮らしだったら、夏の衣類と下着類は手洗いで、冬はクリーニング屋と下着類は手洗いでと使い分けて、もしかしたら洗濯機は買わないかもと思います。
でももし家電の量販店に行ったら、その選択肢は決して示されないですよね。
先日インドネシアで、長く兄貴の家に滞在しているじゅんちゃん(50代男性、バツイチ独身)に「洗濯ものどうしてる?」と聞いたのです。というのも、兄貴の家ってあまりに多くの人が滞在してるから、洗濯ものが混じるか、外注してるとしたらインドネシアの洗濯屋さんって雑だから、絶対人と混ぜて失くすに決まってるから。
それなのにいつもじゅんちゃんがあまりにも清潔感ある着替え方をしてるので、聞いてみたんですよ。
そしたら、もはや洗濯は自分の家でも趣味なくらいだから、ここで失くなったりするとすごく悲しい。スタッフとおそろいの兄貴Tシャツなんて出したら、絶対まぎれて失くなる。だから、風呂に湯を張って服を入れてまとめて洗って、脱水機だけ借りて、屋上に干して自分で取り込むって言うんです。
この判断、これこそが快適とか自由なんだなとしみじみ思いました。
洗濯関係の例えが多いけれど。
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ばな子とまみ子のよなよなの集い
よなよな、人生について意味なく語り合うばな子とまみ子。 全然違うタイプだからこそ、野生児まみ子の言うことを聞くとばな子こと小説家吉本ばなな…