よなよな46 丸
ばな子
いびつ
ヤンキー(的なもの、下町的も含まれる)って、損得ではものを考えないようにできてて、だからとんでもなく間違いやすいけど、長い目で見たら幸せなんですよね。
幸せってなに?って、今日も生きてて、愛するものが周りにあって、酒や飯がうまい。それだけなんですよ。
鶏に農業を助けてもらうっていうのは、「鶏から搾取する」でも「win-win」でもなくって、そこに手間の少ない流れがあるから。
バリでアヒルの丸揚げを食べてると、目の前の畑にアヒルの親子が何組も何組も歩いてえんえん畑の泥をさぐって虫を食べてはまた歩いてるんだけれど、これだけいたら、ちょっと食べてもいいよな、ごめん!って思うだけで、アヒルをもう一生食べない!とも思わないし、手伝ってくれているのに食べちゃうなんてバチが当たる(これは実はちょっとだけ思ってます)とか、かわいくないとも思わない。かといって耕す機械みたいにも思わない。永遠に見ていられる。こちらがその光景に対して自分で決められることはほとんどない。見ている自分も大きな流れの一部になってる。
でも田んぼが室内になって、アヒルが狭いケージで一生暮らして、田んぼに出るのも時間制で、親子でぽこぽこ歩けないとなったら、これは違うなと思うと思う。
自由に歩いてえんえん虫を食べて、親子で過ごして、夜は寝ぐらに帰る。
となりの田んぼには入らないようにと囲ったりもしない。
そのアヒルの幸せを理屈でいじっちゃいけないし、やっぱりそこには無限の幸せがあるんだと思うんですよね。アヒル入れとくと田んぼに虫が減って、ふんが肥料になって、いい感じ。増えても別にいいし。多すぎたら食べちゃうし、っていうだけの成り立ち。
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ばな子とまみ子のよなよなの集い
よなよな、人生について意味なく語り合うばな子とまみ子。 全然違うタイプだからこそ、野生児まみ子の言うことを聞くとばな子こと小説家吉本ばなな…