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【企画小説】二十度の檻

 この二日間で一番楽しかったことといえば、何だろう。

「あのお店のたい焼きさぁ、めっちゃ美味しかったでしょ」

 そうだ、確か季節のさくら餡か何かをこいつは食べていた。私はいわゆるそう言った変わり種系が苦手だからカスタードにしたんだけど、それをこいつは「いやそれも変わり種じゃん」って笑ったんだ。

「あのお店さ、来月末閉まるらしいよ。張り紙貼ってた」

 こいつは本当に、そういった細かなことまで見ている女だ。私のアイシャドウの色味が変わったのも、下着の趣味が変わったのも一瞬で気付いていた。それでもただ一度「どうして」と悲しそうに呟いただけで、理由を訊いたりなんて決してしなかった。私はこいつのそういうところに、甘えていた。
 だから私がこいつと別れようとしていたことも、きっと気付かれていたんだろう。それに気付かなかった私は、本当に色ボケをかましてたんだなって今やっと痛感している。もう何もかもが遅いのに。

「あんたが泊まりにきてくれるってなって、私必死で掃除したんだよ。この入浴剤も、あんたが好きだろうなって思って買っておいたの。気ぃ利くいい女でしょ」

 咽せると同時に、嘔吐した。隙間から溢れて、混ざる。何もかもが、混ざる。
 安っぽい甘い香りと、吐瀉物のにおいが混ざっている。それなのに、もう分からない。ただまだ耳は……浸っていない。

「そういやさ、私このお泊まりでもあんたの写真ばっか撮ってたよ。せっかくならツーショットにしておけばよかったな、って少しだけ思った。ちょっと甘えてたのかも、あんたがいつも撮ってくれてたし。だから私は、わざわざ撮らなかった」

 まるで告白のように、少し照れた声音。ああむかつく、こいつどうせこの状況をエモだの何だの思っているんだろう。
 少しずつ、冷えていく。足されているのはお湯なんかじゃない、冷水だ。甘い香りも吐瀉物も、何もかも掻き混ぜていく。

「震えてるね。ねえ、そんなに寒いかな。わ、冷たっ。ふふ、ごめんね。でも仕方ないからね」

 笑いながら謝るならやめなさいよ、って言いたかった。けれど塞がれたこの口では、もがくしか出来ない。
 こいつの一人で突っ走るところには、もうどこまでも愛想が尽きていた。だからこそ逃げたくて、これで最後にしようと思ってこのお泊まりの誘いに乗ったのに。むしろ、先手を取られてしまった。

「ねえ、最後に教えてあげる。私ね、あんたと一緒にお風呂入るの大好きだったの。裸の付き合いっていうの、やっぱりいいもんだったんだなって。エッチするだの何だのは置いておいて、さ。まあ私は切り替えられる女ですから。エッチはベッドってちゃんと分けてたの」

 それくらい知ってた、なんて言いたかった。それも、刺々しい響きで。でももう、言い合いの土俵にすらもうこいつは立たせてくれない。
 頭がふらふらする。酸欠よりも先に、酔いと冷えが体をぐちゃぐちゃにする。
 あんたのために用意しておいたの、って言ってた地酒を結局飲もうなんて言い出した時点で本当は疑うべきだった。酒で踊っている脳みそをぶっ潰すかのように空いた瓶で頭を殴られ、このざま。

「あんたさ、気付いてなかったでしょう。どうせ、私のことを馬鹿だって思ってたでしょう。当たりだよ、あんたみたいなクソ女を好きになった私は大馬鹿だった。最悪の裏切り方をするような女って、最初から分かってたら。私、あんたなんか好きにならなかったよ。こんなにも好きなの、本当に馬鹿でしょう。何とか言えよ」

 もう駄目だ、力が入らない。もう水が、やってきている。
 こいつはずっと忙しなく動いていた。その口も、止まらない。ただいつもころころ動いていたはずの表情は、こわばったまま固まっていた。

「馬鹿だって言えよ。狂ってるって言えよ。何とか、言ってよ。分かってるの、このままじゃあんた死ぬんだよ。ゲロ吐くまで酔わされて。頭カチ割られて。手足縛られて」

 浴槽が、揺れた。何かの棒が、私の真上に架けられる。合計三本、本当に念入りだ。こんなところで、こいつの性格を改めて思い知る。
 水が、届いた。鼓膜まで、昇ってきた。ごぼごぼと、水が進む。こいつの声が、塞がれていく。
 ああ、最後に聴くのはこの音なのか。どうせなら……あの人の「愛してる」を聞いてみたかった。こんなこと言えばあの人は、きっと困ったように笑うんだろうな。




(きっと熱に浮かされている時は、脳味噌バグってるんだ)




 この二年間で一番楽しかったことって、何なんだろう。

「うん、冷たい」

 彼女に男が出来ていたのは、だいぶ前から気付いていた。そして、そいつに趣味を寄せていっていることも。二股は二股でも極悪だと、こんな状況になっても思う。
 理由も分かってる。私の愛が重くて、熱苦しいからだったって。だからこいつの新しい男は、こいつが追いかけたくなるほどの冷たい男だっていうのも……調べた結果、分かっていた。
 言ってくれれば、うまくやったのに。けれど、それすらも彼女からすれば熱苦しくて重いんだろう。何が笑えるって、その熱でいつも苦しんでいるのは私自身だというのに。
 彼女をベロベロに酔わせて頭を割ったけど、まだ生きていた。さすが私の彼女生命力つよーい、なんて軽いノリではもう笑えなくなっていた。
 もう引っ込みもつかなくなったし手首足首それぞれ縛って、口もタオルを噛ませて塞いで。身動きを取れなくしてから浴槽に沈めた。そして蛇口から、二十度設定の水を注ぎ続けた。そういや中国かどこかにこういう拷問あったな、なんてぼんやり思った。
 浴槽半分くらいで、もう彼女は完全に水に閉じ込められた。何となく入れてみた備え付けの入浴剤は運良く透明で、ゲロをタオルの隙間からこぼす彼女はよく見えた。

「くさぁ」

 もう何も聞こえていないのだろう。反応もない。ようやく浴槽いっぱいになったから、水を止めた。つっかえ棒のおかげで、彼女の体も浮いてこない。こればかりは映画の知識だけれど、ここまで入念に準備をしてでも彼女を殺したいと思っている自分に対して……まるで他人事のように、引いていた。
 けれど、構わない。だって彼女が悪いんだから。
 改めて、水に触れる。冷たい。これからもっと冷えていくことだろう。
 私の熱が理由で逃げ出そうとしたのなら。ずっとこのまま、冷たい水の中に居ればいい。
 ずっとこの水を温めることなんてしない。この冷たい水の中で、私の温もりを求めて後悔していればいい。
 きっとここから彼女を解放する時は……また彼女が私への気持ちを温めた頃。でも分かってる、そんな時は永遠にもう来ない。だって、もう。

「ねえ、愛してたんだよ。本当に」

 囁きすらも、もう届かない。


主催企画「お風呂が沸くまで」投稿作品です。
趣味に突っ走った結果。
※3/1以降から投稿作品たちの発表行うので、発表当時の2/20はフライング投稿です。そのため企画タグ付けは企画スケジュール通り3/1以降に行います。


匿名コメントでも、「こんなお題で書いてよ」的なリクエストでも、人生相談でも、なんでも募集中。

基本的にはつぶやきで返信します。よろぴこちゃん!


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