【お体だけは】行間を読もう【どうぞ大事に】
はいこんにちは。
霞み目と戦う作詞家、藤橋です。
夜中に書き物をやっていると目がショボショボしてきて
いっそこのまま目を投げ捨ててやりたいくらいの気持ちになります。
ここ数年、なぜか巨大なコンタクトを無理やりつける夢をよく見ます。
何の暗示なのでしょう。気になります。
恒例の自己紹介はこちら。
さて今回は、
歌詞の行間を読むことについてお話します。
表現の世界では特に重要なことであり、
割と一般的に耳にする言葉でもないでしょうか。
「行間を読む」を辞書で調べると、
文章には直接表現されていない筆者の真意を汲み取ること
と書いてあります。
歌を聴く時で言うと、
そこに歌われていない作者の感情やシチュエーションを想像して補完していく作業のことを指します。
ぼくが生まれた昭和の時代から比べると、
今はコミュニケーションツールが信じられないくらい発達しています。
大変便利な世の中になりました。
もう駅での待ち合わせなんて改札の黒板を使わなくても楽勝ですもんね。
彼女の家に電話したらお父さんが出て切られる、みたいなこともありません。
公衆電話の使い方が分からない人がいる、なんてことも聞きます。
ところが、今はいつでも誰とでも手軽にやり取りができる反面、
「行間を読む」能力を高いレベルで備えている人が減った気がしています。
今の時代の文字コミュニケーションは、基本的に短文です。
1~2行の文と絵文字やスタンプで会話が成立します。
逆にLINE等で長文が来ると、少しゾッとして身構えるくらいです。
かつての文字コミュニケーションはと言うと、
手紙から始まり、長文のメールがあり、そこで存在感を示していくには「正しく読む」技術と「読ませる」技術が必要だったりしました。
そして、文字では書かれていない真意を読み解く・伝えるのが粋であり雅であり、
スムーズに心の受け渡しができていたような気がします。
ちょっと話は逸れますが、
「言葉」という言葉、なぜ「葉」という字が使われているか
知っていますか?
真実、つまり「事」=「言」という字に
口先だけの軽い話という意味を持つ「端(は)」を加え、
いつしか端が葉になり、言葉という字になった
というのが一般的に知られている成り立ちです。
つまり、重要な連絡事項から取るに足らない戯言まで、
全てをひっくるめた口頭でのコミュニケーションツールを
「言葉」と呼ぶのです。
話を戻しますが
この「言葉」というもの、結構やっかいな代物でして。
AさんとBさんが同じ言葉を発しても、
受け取り手の捉え方が全く違う、なんてことがしばしば起こります。
また、Aさんが全く同じ言葉を発しても、
BさんとCさんでは受け取り方が違う、なんてことまであります。
ひどい話であり、また、言葉の素晴らしく美しい点でもあります。
そしてこの受け取り方の相違が発生する瞬間、
そこには「行間を読む」という作業も同時に発生しているのです。
言葉・文章で直接表現されていない何かを感じ取っているというわけですね。
問題なのはここです。
ここで話者と受け手に「行間を読む能力の乖離」があると、
あらぬ誤解を招いたり、不要な論争に発展したりします。
完全に時間の無駄です。
さて、歌詞の話をしましょう。
歌詞というのは、
限られた尺または字数で何かを表現しなければならない
という命題を持ちます。
と言うことはつまり、
1から10まで全てを言わずとも本質を伝えたい作詞側と
少ないヒントからバックグラウンドを読み取る聞き手側の
せめぎ合いとも言えます。
「結局何が言いたいか分からないけど良い曲」
なんて曲も結構あったりしますが、
やはり、基本的には何も意図せず作詞をするなんてことは稀なわけで
そこには必ず何かしらの意思があります。
それを理解するためには、やはり行間を読まなければなりません。
簡単な例ですが、たとえばBOØWYのCLOUDY HEART。
氷室京介さんの過去の失恋を描いた名作ですね。
この中に出てくる、お体だけはどうぞ大事にという言葉。
これ、本心で「お体だけはどうぞ大事に」と思って言っていますか?
違います(決めつけ)。
「気の向くまま過ごしてた二人」が
「終わること感じてたわりにミジメ」な破局を迎えます。
「あんな日はもう二度と来ないような気」がする主人公が
一発目に「お体だけはどうぞ大事に」と思うでしょうか。
きっとその反対側には、
なんとかうまいこと続ける方法はないか、あれこれ考えに考え抜いて
最終的に諦めるしかない現実があり、
自分を責める気持ちの大きさ故、かけると男がすたる言葉だらけの中
なんとかギリギリ振り絞った強がりにも似た言葉、
それが「お体だけはどうぞ大事に」だったのではないでしょうか。
これはあくまで想像であり、
どこかしら「そうであってほしい」みたいな願望も入っていますが、
この想像する行為こそが行間を読むということだと思っています。
この力を鍛えるには、とにかくもう本を読むしかないです。
活字の向こう側を想像で補完して読み進め、何か違和感があったら一歩でも二歩でも戻って考え直す。
これしかありません。
少ない文字数でのやり取りが主流の今だからこそ、
この力に長けていれば横並びの中から抜きん出ることが容易いはずです。
ぜひ、本を読んだり歌を聴いたりする際に少し意識してみてください。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
ではでは。