構造化することが大好きな楽天家の倫理学:幸福な人は生涯を通じて幸福
2023年最初の読書会は、アリストテレスの「二コマコス倫理学」だ。アリストテレスは、「事柄の本性が許す程度に厳密性を求める」という基本理念のもと、善、幸福、人生の目的といった難題に臨む。今回読むのは、第1巻人生の目的である。以下では、アリストテレスの主張を「A章の数字ーシリアルNo.」で示すことで、話の流れを追うことにしよう。
主張1:目的は階層構造で、最上位の目的は善である
A1-1:善 → あらゆる人の目的
A1-2:目的は技術(行為、技術、知識など)・能力によって達成される
A1-3:任意の技術にはそれを支配する技術があり、上位の技術の目的が、従属のよりも望ましい
A2-1 :各自が目的を持ちうるが、有意味のものは善である
つまり、あらゆる人の目的 → 善、よって 善 = 人の目的
主張2:知識の最上位の政治学は、理性のある大人向けの学問だ
A2-2:知識の最上位は、政治学である(統帥学、家政学、弁論術は政治学に従属される知識)
A2-3:国家の目的(神的でもある) > 個人の目的
A3-1:人はだれでも、自分の知っていることには適切に判断する判定者である
A3-2:若者は、情念に動かされやすい「抑制のない人」であり、政治学を正しく認識できない
主張3:究極の目的は幸福・善である
第5章では、「享楽の生活」、「政治の生活」、「観想の生活」と3種の類型を示す。大衆は、快楽、富にコントロールされた家畜のような生活を選択しているという。そして、第6章では、師匠プラトンのイデアを批判する。善は実体として捉えることが重要で、そのためこれらに共通なものであるイデア自体は存在しないと主張する。
A4-1:政治学・倫理学が目指すのは幸福である
A4-2:政治学・倫理学の学習者は、「習慣」によって立派に育てられなければならない
A4-3:大衆は幸福として目に見えるものを考える(ため、意見が食い違う)
A5-1:幸福とは善 > 快楽・名誉・徳 > 富
A7-1:つねにそれ自体で選ばれ、他のものゆえに選ばれることのないもの=(究極的)幸福 (minmax)
A7-2:自足的なものとは、それだけで人生を望ましいもの、何もかけるところのないもの=(自足的)幸福 (maxmin)
主張4:幸福な人は生涯を通じて幸福である
アリストテレスは、善は外的・魂・身体に関わる3種類があるという。また、「ある所の行為や活動こそ目的である」であり、「幸福な人は『よく生きる』、『よくなす』」という。さらに、善(善きもの)を「所有・状態」、「使用・活動」するのかと問う。善き徳を収めるのは、オリンピアの例を出しながら、後者である行為する人々であると結論づける。
A7-3:人間に固有な機能「理性(ロゴス)」と行為的生(活動・状態)
A7-4:完全な人生において、人間にとっての善とは「徳に基づく魂の活動」
A7-5:徳に基づく行為=快いもの、美しい、善き行為(竪琴奏者の機能は竪琴を弾くこと、優れた竪琴奏者はうまく弾くこと)
A7-6:幸福=最善、最美、最も快いもの
A8-1:徳を愛する人々の生活は、生活それ自体のうちに快楽をもっている
A10-1:徳に基づく活動は安定性を持つ
A10-2:真に善き人は、あらゆる運命に耐えて、与えられている状況から最も美しい行為を行う
A13-1:人間の理性 1. 本来の意味での理性、2. 理性に耳を傾けること
A13-2:徳 1. 思考の徳(知恵、理解力、思慮)、2. 性格の徳(気前の良さ、節制)
第一巻は、幸福のための特徴は幸福な人に属する、というトートロジーっぽい主張で終わる。そもそも、答えありきのアリストテレスの談義に乗せられた感じがしてならないなぁ。
アリストテレスへの問い
さて、第1巻では、人生の目的=幸福=善=徳の大枠が示された。しかしながら、最初に議論で展開された目的の階層性は相当疑わしい。
疑問-1:そもそも目的は、唯一の順序(比較基準:望まれる・無意味)で比較することのできる階層構造なのか?
現在、複雑な環境下で多様なステークホルダーがいる場合に、その問題解決のための唯一の解はないし、何らが提示されたとしても全ての人が同意するということはないと、いわれている。そのため、目的の順序づけはできないと考えるのが妥当だろう。最初の前提が疑わしいのが、問題だ。
人生の目的が善、幸福であるならば、それら幸福、善とは、努力して身につけられるのか?第9章のタイトルは、「幸福とは神的なもの」だ。また、政治学を身につける人は「習慣」によって立派に育てられなければならないという。
疑問-2:「抑制のない人」である若者はどのように成長し、善を目指す国家の一員になるのか?教育は無力なのか?
疑問-3:家庭環境、教育によって身につけた「習慣」が、人の幸福の程度を決めるのか?
これに対しては、第一巻まででは明確な議論がされておらず、善の形成は政治学を取得した政治家に任せればよく、大衆はその政治に従えば良いといった感じだ。アリストテレスも教育者だとすると、教育者としてそれでいいの、ちょっと!と言いたくなる。
少数のエリート市民と、奴隷とその他の人から形成されているこの当時の時代背景を考えると、そのように考えるのが当然なのかもしれない。万人に教育が行き渡り、平等と言われているこの時代のなんと幸せなことよ。色々疑問はあるけど、この先が楽しみでもある。。。