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熊川哲也

僕が初めて彼を観たのが、
いつなんだったのかは覚えていない。

ただただ驚いた。目を疑った。

たぶん、16歳でゴールド・メダルを受賞した、
1989年ローザンヌ国際バレエコンクールの、
「ドン・キホーテ」だと思う。

このゴールド・メダルは、
該当者無しの年がほとんどで、
以下のような熊川の名言がある。

ゴールド・メダルは、
取れるとは思っていなかったが、
取ろうとは思っていた。

アメリカン・バレエ・シアターで、
「ドン・キホーテ」のバジル役を踊る、
ミハイル・バリシニコフが、僕は大好きだった。

まさかそんな男性バレエ・ダンサーが
また現れるとは思っていなかった。

しかもそれが日本人、10代の若者である。

ベジャールで踊る、
小林十市どころの騒ぎではない。

89年2月、16歳でロイヤル・バレエに入団、
半年後の17歳で最年少ソリスト昇格、
93年5月、得意の「ドン・キホーテ」バジルが、
またも大絶賛されて、21歳でプリンシパル。

吉田都がロイヤル・バレエに移籍したのは、
95年の頃だっただろうか。
日本でのロイヤル・バレエ人気は沸いた。

熊川は在籍10年の98年に退団して帰国、
99年、自身のカンパニーを立ち上げた。

日本のバレエファンは、狂喜乱舞した。

99年12月、Bunkamura10周年記念、
ジルベスター・コンサートで、
この時の熊川のために、
ローラン・プティが振付した「ボレロ」を踊る。

10年前のローザンヌからロイヤル入団以来、
ローラン・プティは、熊川の演技に瞠目し、
初期の彼の代表作「若者と死」を、
熊川はレパートリーに加えている。

熊川にあれだけ興奮した当時20代の男性は、
日本中で僕だけだったのではないだろうか。

フェラーリ好きの感じ悪い彼のイメージは、
踊らない男性からは真っ先に嫌われていた。
名声より富裕を選んだと陰口を叩かれた。

それでも彼は、日本人として、
日本のバレエ界の救世主、革命児だった。

90年代は今ほど多様性はなく、
ましてや英国のロイヤルである。
東洋人として、闘う日々だったと思う。

あの跳躍で、膝が長く保たないことは、
本人しかわからない苦しみだろう。

ロイヤル退団を英国は惜しんだが、
日本での活躍を応援してくれた。
ローラン・プティも、そんな一人だった。

芸術は国境を越える。

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