第2話「弦楽四重奏曲」
サントリーホールの開場を知らせるパイプオルゴールを、こんなにじっくりと見たのは、いつ以来だろうか。初めて見た時の、静かに胸が高鳴る興奮を思い出す。見上げていると、レセプショニストがゆっくりと扉を開け、僕たちを迎えてくれる。今から、特別な時間が始まることを、ここにいる誰もが知っていた。
ブルーローズと呼ばれる、小ホールは初めてだった。演奏者の息遣いや表情を間近に感じられる、室内楽向きの空間。「チェンバーミュージック・ガーデン」はこのブルーローズで、2011年から毎年6月に開催されている、室内楽の祭典だ。その恒例の目玉企画が、ベートーヴェン弦楽四重奏曲全曲演奏会「ベートーヴェン・サイクル」。海外から新進気鋭のカルテットが来日する。
という広告を目にして、僕にとって初めての、生演奏の室内楽鑑賞になるわけだ。僕、森田健は、子どもの頃からベートーヴェンが大好きだった。ピアノを習い、作曲や指揮者に興味があり、なんといってもオーケストラが好き。要するに、ベートーヴェン作曲ピアノ協奏曲第5番変ホ長調作品73「皇帝」が好きだった。
ピアノは青帯の教則本でベートーヴェンの変奏曲を弾いていたが、子どもには難解で孤独だ。洋邦ロックを聴き飽きた頃、ピアノソナタ第23番ヘ短調作品57「熱情」を毎日朝昼晩聴くようになる。大好きなピアニスト、マウリツィオ・ポリーニやマエストロ、クラウディオ・アバドがよく来日してくれて、サントリーホールにはその度に聴きに来ていた。
オーケストラは木管楽器の音色が好きだったので、室内楽はどこか中途半端さ、物足りなさを感じていた。弦楽器が女性的だとか、ヴァイオリンのためだとか、今思えば完全に思い違いだが、若気の至りと言えばそれに尽きる。案の定、年齢を重ねるに連れて、弦楽器の、特にチェロの音色に惹かれて、自然とチェロを習い始めた。無伴奏やチェロ・ソナタ、弦楽四重奏曲など聴いて、仕事や家事育児に疲れた心を癒やすばかりの日々がしばらく続いた。
弦楽四重奏曲。本当の意味でこの奥深い世界の入り口に僕を立たせたのは、やはりベートーヴェンだった。弦楽四重奏曲第7番ヘ長調作品59-1「ラズモフスキー第1番」。ポリーニもアバドもいないので、出会うまで時間がかかったのは無理もない。第1楽章の始まりで、チェロのあの伸びやかな旋律が耳に飛び込んだ時の衝撃。「熱情」に出会って以来だった。今思えばあれが、僕の新しい旅路の始まりでもあった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?