三十路を超えた詩人たちへ
私たち「詩」を創作している人たちは
「その歳でまだ『詩』をやっている」と嘲笑されるだろう。
(私のように実名でやっている者は、もっと覚悟が必要だ)
理解されないのは「詩」の機微な違いが分かってもらえないからだろう。
例えば、詩の世界で大家とされる人でも
とても酷い詩を挙げることもあるし、
それをあたかも名作であるように「売り込む」人たちもいる。
だから、私たちは、「詩」の「良さ」の尺度を
自分で作らなければならない。
そして、それは、一般的であり独自的でなければならない。
詩の鑑賞は、それまでどんな詩をあるいは周辺文学を読んできたかで分かれる。
例えば、落ち葉に体を預けて、その触感に宇宙を感じていた、という
私たちのまなこを抜いた詩人が、
誰も座っていない椅子に性愛も憂いもなくただ誰もいないと嘆いている
正直、何も語っていない詩を装丁だけ美しく
(いや、装丁のための無装飾であれば納得いく)
残した詩人の詩情の枯渇については、私たちは多くを語れない。
つまり、「詩」は「詩人」に属するのではなく、
「世界」に「時代」に「歴史」に「神話」に、そして「個人」に
宿るものであり、必ずしも独りの詩人に「詩情」が専有されることはない。
私は、私の「詩の尺度」で、そう断言ができる。
(ここまで、『技術』については述べていない。
私の念頭に置いている人は『技術』でごまかしている)
それは「三十路を超えて詩をやっている」者だからできる。
確か、そのようなこと(年老いて詩をやる人の事)をエリオットは言っている。
つまり、私たちは、ランボーや啄木の世界観は、もう歌えないのだ。
しかし、ボードレールを新しい信仰というエリオットの
皮肉を理解できるのは、エリオットが、
アングリカンチャーチの人間であると自称しているからだ。
そして、信仰も詩情も政治観も明らかにした
「倫理的な」エリオットが、ボードレールを「新しい信仰」というのだから私たちは、その暗喩を思うしかない。
『異神を求めて』とは、そういうことだろう。
枯山水庭園に落ち葉が落ちないことは、美しくないのだ。
伝統に「今」がなければ、それは「美しくないもの」なのだ。
それが、エリオットの主張だろう。
つまり、「伝統」と「今」は対立関係ではない。
補完関係でもない。
相互関係なのである。
「三十路を超えた詩人たち」は、
諦めていないということで、そこには、何か
執着するだけの何かがある。
ただ、そこには「尺度」がなければならない。
私の独自の尺度でなく、「一般」という尺度である。
私が、最も欲しいのは「一般の尺度」である。
私たち三十路を超えた詩人たちは、
創世記のオナンであってはならない。(創世記38:9)
「独自の詩の尺度」を捨て去ってでも
「一般の詩の尺度」になじまなければならない。
それが「三十路を超えた詩人たちへ」の
つまり、自分への警句である。
そして、重大な現実は、
詩を愛でない人たちは、
「一般の尺度」で「私たちを計る」のである。
つまり、私が他人を計る秤で裁かれるのである。
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