巷の短歌における"キリスト"論
物凄く当たり前の事を言うが
モダニストは(射程は異なるが)前時代を批判的に享受しなければなれない。
そして、私は理論家ではなく実作家らしいからモダニスト理論家の論を収集しながらになる。
現時点で常に現代短歌はどこから始まったか?という問いは発さられる。
そして、それは多く、誰かの登場によってエポックメイクされる。
しかし、私は、大物歌人の死というのも基準になると思う
誰々が死んだということから始まって、復活の"キリスト"が登場するのではないか?
文化に全く新しいはないだろう
前時代で死んでいたものが現在では生き生きとしている
前時代では必要もない。
むしろ不快であり古臭くて
もしかしたらダサい要素が
現時点では、重要度が高い
それが"復活のキリスト"なのではないか?
新しい価値基準を創造する。
それがモダニストのすることだ。
エポックメーカーについて
穂村さんが凄いと思うのが、現代歌人の登場人物の民主化を行ったことだろう。
演繹でなく帰納。
穂村さんは、価値基準を与えたのだ。
しかし、今はやはり"キリスト“が必要らしい。
現代短歌の"キリスト"すなわち救世主は
穂村さんらしい、、、
正直、アナクロ感を受ける。
それに、穂村さんに影響されている人たちは
「偽」"キリスト"になる。
誰も超えることができない。
短歌の歴史の終焉だ。
ここで、キリストというセンシティブな用語が自らの首を絞める。
(現代短歌がどこから始まったのか? という問いの答えは穂村弘であるという結論の説明にキリストを用いることが適切だと思わない)
モダニストは価値基準を自分で建てる。
最も時代の先端にいて誰もその価値に気がついていないから自分の価値基準がなければ誰もはかれないから自分で価値基準を設定しなければならない。
今回、評論家高良真実さんの短歌におけるキリスト論を読んで、感想をつらつら述べてしまった。
高良さんとは面識もないから失礼だろうが、感想を述べてしまった。
穂村弘さんが凄いのは誰もが知っている。
もっと時代の先端にいる、その感覚で歴史短歌学を評論して欲しいし、誰もが高良さんに期待している。
私は、その論を拝借してもっといい短歌を作りたい。拝借できるものは何でも拝借している。
まぁそんな感じで
私は理論家でなくて実作者だから
なうでやんぐな
えもいばいぶす
持った歌人として
作品をぶつけるしかない。
https://sunagoya.com/jihyo/
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