ミドルバースの回想
未来に載る作品は、基本的に3か月前の作品と思ってもらっていい。
しかし、私は、修論などがあったからため込んだ
ストックから吐き出していたから
正確には、いつ頃の作品かは分からない(その気になればPDF化する時の日付を追って行けば分かるだろうが、それはほぼ無意味だろう)
今月の「火のような雨」は、ミドルバースの思想の萌芽である。
しかし、初期作品の当然だが、まだ思想が深まっていない。
だから、ほぼライトバース長歌と言ってもいいくらいの軽さである。
今の作品はもっと引用過多のミドルバースになっている。
未来の秋の批評会にむけて、
ミドルバース短歌を作っているが、口語で詠みつつ引用するには、
二作品くらいが、限度と思えてきた。
そこに、黒瀬欄の歌会をあるので、もう一作
ミドルバース短歌を用意したが、これも二つの作品の引用しかできない。
口語で、引用をするというミドルバースの精神は、一首では二作品まで、連作あるいは長歌では、まだまだできる。
という回想をして来たが、
なぜ私がミドルバースという思想にとりくもうと思ったか?
それは、今はまだ明かしたくないが、ある作品を
短歌研究新人賞までに読み終え、そのイメージ・技法・引用するために読み進めている。
それは、明らかにヘビィーバースなのだ。
一行読むたびに注釈を見なければならない。
かつ、本文の流れをしっかり押さえなければならないから
まるで、論文を読むような感覚と
未来全国大会に出て、ライトバースが「平成」つまり、最も直近の(歴史的)運動であることを思った。
きっと、最も直近の運動は、もっと小さな集団から起こっているかもしれないが、
私の中で、ヘビィーバースとライトバースの揺らぎが常にあった。
そして、T.S.エリオットは、『荒地』を
パウンドにバッサリ添削されたという。
つまり、『荒地』は、元々、ヘビィーバースだったのが、
分かりやすいように、削られた。
しかし、それを踏まえて読んでみてもライトバースではない、
『荒地』は、ミドルバースなのではないかと
仮説を立てた。
私は、『荒地』愛好家だから、この仮説で試みようと思った。
口語で引用をする、それがミドルバースであるだろう。
連作あるいは長歌では、まだまだ可能性がある。
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