日米交渉1941 -15- (草稿)
昭和16年(1941年)12月5日。ワシントンの日本大使館に日本本国から、非常に理解しがたい電報が届きました。
それは、寺崎英成領事を含めた数名の外交官に対する、転勤命令でした。事実、寺崎には、11月29日、南米転勤の内示がありましたが、飽くまで内示であるので、引き続き、ワシントンに留まり、職務に当たっておりました。
しかし、この転勤命令。海外在勤の外交官にとっては、至極当たり前の様に思えますが、電報の発信日時が、12月5日の金曜日であること、また、指示の内容が
「転勤先に一両日中に出発させよ」
という、通常時ではあり得ない異例のものでありました。
つまり、外務省本省は、寺崎らの転勤を金曜日か土曜日のうちに済ませよという意志を伝えたのですが、転勤までに時間がなく、況してや週末ということで、野村吉三郎、駐米日本大使独自の判断で、週明けの12月8日、月曜日に転勤準備にかかる様、寺崎らに伝えました。
さらに、寺崎らの転勤命令の電報と別の内容で、大使館にある暗号機の破壊命令が届きます。
これらの情報を鑑み、野村をはじめとする日本大使館員は、遅ればせながら、事態が切迫していることを察知したのです。
しかし、それでも、彼らは、まさか奇襲による開戦と云うことは未だ想像をしていなかったのです。
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