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【連載小説】あの時、僕は二人になった[10/10](8789字/総約8万字)

【2022年ポプラ社小説新人賞の(問答無用の)落選作】
 登場する人物および名称は、すべて架空のものであり、実在するものと一切関係有りません。
 また、差別的と感じたり公序良俗に反すると思われる記述がありましたらお知らせ下さい。

(十九)

 祭りの翌日、朱莉は百川でもう少しやることがあるということで、倫也と実音は二人で名古屋に戻ることになった。
 名古屋駅から栄に出て、そこから私鉄に乗り換える。実音の家の最寄り駅は、倫也の家の最寄り駅より一つ手前になる。家まで送っていくと倫也は提案したが、まだ明るいから大丈夫と実音は言う。そんなんじゃないんだけどな、少しでも長く一緒にいたいのに……と倫也は内心不満に思った。
 その日の夜のニュースで、猫田が逮捕されたことが伝えられた。土地売買の斡旋の贈収賄に対する根住議員の関与についても取り沙汰されていた。
「秘書の猫田が百川の皆様に大変ご迷惑をかけ、誠に申し訳ありません。しかし、天命に誓って申し述べますが、猫田が勝手にやったことで、この件に関し私は一切関与しておりません。」
 『秘書が勝手にやった』という言葉は、いろいろと不祥事を起こした政治家が使う常套句だ。特に今回の場合、倫也が知る限り、根住議員が関与していることは明らかだった。しかし、そんな事実をどうやって知り得たのか、倫也はそれを警察や関係者に正しく説明することができない。もどかしい思いが残っていた。
 翌日、実音といっしょに病院へ行くことにしていた。トモナリの世界線でトモナリが入院していた部屋に、倫也自身の世界線ではいったい誰が入院しているのかを知りたいからだ。
 逆に、もしトモナリの世界線へ跳ぶことがあれば、今度こそトモナリの家、ミオンの家に行ってみたいと思っている。結局、百川にいる間に行くことは叶わなかったし、昨日は跳ぶ気配もなく、自分の家に戻ってきてしまった。
 そんな動機付けは、自分への言い訳に過ぎない。実音と二人で出かけられることに、倫也はとても心をときめかせていた。
 履いていくのは、アディクスの靴。今のお気に入りには間違いない。しかし、自分が買ったのはアディクス製だったっけ、もしかするとアシッダスの靴の方がよかったかも、と今日は何となく頭の片隅に疑念が残っていた。失敗したとは思っていないが、わずかに後悔している思いを倫也は打ち消せないでいた。
 電車がゆっくりと速度を落とすと、ホームに立つ実音が見えてくる。百川で見たよりも少し大人びた雰囲気の装いだった。背中にはきつね色のミニリュックを背負い、そのリュックの脇にバッグチャームがついているのが見える。百川で実音が自作した赤柴のプラ板だった。
 実音は電車の中の倫也を見つけて、笑顔で手を振る。ドアが開くと、実音は倫也の隣りに駆けより、
「あっ、黒柴くん、付けてくれてるんだ!」
と嬉しそうに言った。肩からたすき掛けにしたボディバッグの金具部分に、倫也は実音が作ったバッグチャームをぶら下げていた。
「うん、まあ……。」
と倫也は気恥ずかしそうに答えた。
「その服って、シマクロ?」
と倫也が訊くと、実音は首を横に振った。
「これは違うよぉ。もうちょっとリッチなお店で、お母さんといっしょに買った服。似合ってる?」
と実音に訊かれたが、倫也はやはり女性のファッションがあまりわからない。
「うん……、少し大人な感じかな。」
と倫也は何とか言葉を絞り出した。そう言われて実音は
「ありがとう!」
と嬉しそうに笑った。
 栄で地下鉄に乗り換え、病院へ向かう。しかしそのあとのプランを倫也は何も考えていなかった。とりあえず、実音といっしょにどこかへ出かけることに意義がある、と倫也は思う。しかし、それで実音が楽しいと思ってくれるかどうかはわからない。
 二人が地下鉄の駅を降り病院の入り口まで来ると、そこに佇んでいた男が声をかけてきた。実音はその顔を見て、幽霊を見たかのように驚く。『ネコタ』だった。しかし倫也には、病院に行けばネコタに会うかも知れないという予感めいたものがあった。
「中之内くんと……下草さんだったかな。」
「ネコタさん……。」と倫也。
「えっ、どういうこと? 猫田さんって逮捕されたんじゃ……。」と実音。
「なるほど、この世界線の『猫田』は捕まってしまったのだね。」
「あなたは逮捕されていないのですか?」
 そう言いながら、倫也は実音を自分の背中に移動させた。
「私自身の世界線では……まあ、君たちが知る必要のないことだ。」
「何しに来たんですか。僕に仕返しに来たんですか。」
「いや、言い訳をしに来ただけだ。この間は君に『話す必要はない』と言ったが、私の話をぜひ聞いてもらいたいと思っている。この世界線の『私』の名誉のためにもね。」
 猫田は、悪事に荷担した顛末を話し始めた。
「私は娘の手術費用が欲しかった。で、その費用は、確かに明清コンサルタントから受け取ったものだ。全く否定しない。」
 明清コンサルタントは手付金を払ってくれた。手付金と言っても相当な金額だった。おかげで、猫田は娘を助けることができた。
「というより、足元を見られた、と言うのが正しいかも知れない。私の個人的な事情をよく知っていたようだ。」
 猫田が頼まれたことは、百川で耕作放棄地を処分したい人と明清コンサルタントの仲介をすることだった。さらには百川の水源地を手に入れられるようにも要請された。猫田は、明清コンサルタントが百川で何をしようとしていたのか、詳しいことを知らなかった。しかし根住には、多少の犠牲は伴うが百川の将来のためになる、と言われた。
「そのために私は尽力した。私はお金のためだけにやったわけじゃない。だから、娘の手術費用は、私が汗水流して手に入れたお金だと思っている。正当な金額とまでは言わないがね。」
 土地売買をスムーズに進めるために、百川の評判を落とすこと、百川に風評被害を与えることを考えた。手始めに計画したことが、神輿の破壊や廃校の破壊だった。
「かわいいものだろ。多少の犠牲は付きものだが誰が死んだわけでもない。単なるいたずらだ。」
 しかし、風評被害が多少の犠牲と言えるのかは、甚だ疑問だ。
「議員のような立場の人が、その謝礼としてお金を受け取ったら、それは賄賂じゃないのか。」
「賄賂……かも知れないね。人によっては、こんなことをするのは犯罪だと思うだろう。しかし私は百川のためだと思った。寂れ行く百川が世の中の役に立つようになると思った。それは私なりの正義だ。」
「そんな正義なんか、糞食らえだ!」
「もう一度、中之内くんに聞くがね、真っ当な人生を生きようとして、光を失い娘も失った男と、娘を助けることができた上に健康に生きている男、このどちらが幸せだと思うかね。」
「そんなお金で病気が治ったからって、娘さんは喜ぶんですか。」
 しかし、ネコタは嬉しそうに言う。
「喜んでたよぉ、娘も別れた妻もね。私は、金を持つ奴らからちょっとその金を頂いて娘を助けただけだ。私のことを娘に一切伝えるな、と別れた妻には言ってある。しかし、私にとってはかわいい娘だ。娘が私のことを知らなくても、私のことを覚えていなくても、娘が生きているということがどれだけ幸せであるかわかるかね。」
「だけど……」
 倫也には反論の言葉が浮かばない。
「たとえ、法律的には許されないことで得たお金だとしても、それが人のために役立てば、それはいいお金だと思わないか。結果として誰にも迷惑をかけていない。私のせいで百川の誰か死んだか? 私のせいで百川の誰かがお金をだまし取られたか?」
「現に、神輿や廃校を壊されて迷惑を被ってるじゃないですか。」
「その程度ですんだと思えば、儲けものだ。」
と言って、ネコタは小馬鹿にしたような笑顔を見せた。
「ただ、悲しいことに私一人が悪者になっている。これは実に悔しいことだ。議員の秘書という立場は不遇なんだよ。」
 秘書は議員が言うことに簡単には逆らえないのだと言う。議員は甘い汁だけ吸って、責任は秘書に取らせる者が多いと言う。
「ネズミに踊らされるのはネコの宿命かね。」
と言って乾いた笑い顔を見せる。そして笑いながら、ネコタの姿は消えていった。
「今の何?」
と怯えたように実音が訊いた。
「他の世界線のネコタ……かな。」
と倫也は答えたが、何だか引っかかるものが残ったままだった。
 エレベーターを降り、トモナリの病室、正確にはトモナリの世界線でトモナリがいる病室へ向かって倫也は歩き出した。何かが落ちる音がする。実音が気づいて拾い上げると、プラ板だった。実音が作った黒柴のプラ板の付け根の取り付け穴が割れていた。倫也のバッグには、ナスカンとキーチェーンのみが残されていた。
「あっ、これ、壊れたぁ!」
と悲しげな実音の声。
「ごめん。あとで自分で修理するから。」
と言って、倫也は黒柴のプラ板を手に握る。
 病室に向かって歩き出した時、後ろから「あっ」という実音の小さな声が聞こえた。なにかと思って振り向くと、そこには実音の姿がなかった。
「えっ!」
と声を上げて、倫也は立ち止まった。
(実音が消えた? どういうことだ。)
 倫也の心の中に疑念と想像が湧き上がってくる。その思いは渦を巻き、嵐のように気持ちをかき乱した。
(僕が跳んだのか? いや、浮遊感がなかった。)
と訝しんだと同時に、倫也を強烈な浮遊感が襲った。これまでにない感覚、まるで、奈落の底に投げ出されたような体感だった。
 気がつくと目の前は病室の扉。
(跳んだのか?)
 さっきはまだエレベーターの近くにいたはずだから、別の世界線へ跳んだことは間違いない。しかし、実音が目の前から消えたのは跳ぶ前だった、と倫也は確信している。
(しかしなぜ?)
 考えれば考えるほど倫也の思考は混乱し、靄に飲み込まれていくようだ。
 明確な答えを思い付かないまま立ち尽くしていると、小学生くらいの男の子が大声で泣きながら病室から出てきた。その男の子に付き添う父親らしき人物の顔は歪み、涙で濡れていた。倫也が見知らぬ二人が、なぜトモナリの病室から出てくるのかを疑問に思った。
 最悪の想像が倫也の脳裏をかすめた。その筆舌に尽くしがたい想像は瞬く間に倫也の頭の中を埋め尽くした。
 倫也は病室の扉を開ける。中には、男の子の母親らしき女性がいた。倫也はベッドへ駆け寄った。ベッドに横たわっているのは、実音だった。倫也は頭が真っ白になった。なぜ実音が寝ているのか、と考えても事態を把握することができなかった。
「あなたが中之内倫也さん?」
と母親らしき女性が倫也に声をかけた。彼女の目は真っ赤で涙に濡れていた。
 倫也はこくりと頷く。
「ついさっきまで、あなたの名前ばかりを呼んでたんですよ。」
 そう言いながら、彼女は包帯に覆いつくされている実音の頭を愛おしそうになでる。
「何度も何度も、譫言うわごとのように……」
と言って、口を押さえて嗚咽した。そして、実音の耳元で
「実音、中之内くんが来てくれたわよ。」
と小さな声で言った。
 機器のモニタ画面に表示されるはずの曲線は既に直線でしかない。その上に表示されている数字は『0』となっていた。
「そんな……」
 倫也は声にならない声を上げ、ベッドに横たわったまま、身じろぎもしない実音の両頬に手を添える。
「なんで……、僕じゃなくて、なんでお前なんだ……実音!」
 倫也は膝から崩れ落ち顔をベッドに突っ伏した。
「実音! 実音!」
 まだ、温もりが残る実音の手を握りしめながら、倫也の頭の中を、実音との想い出が走馬灯のように駆け巡った。出会いからたったの一週間ばかりのことだったが、実音は倫也にとってかけがえのない存在となっていた。
 神輿の下から顔を出した時、実音を下からのぞくことになったのは、悪い偶然の代物だった。頭を蹴られたのはひどく痛かったが、今の心の痛みとは比べようもないほど軽いと思えた。
 自転車で鍾乳洞へ向かうのに軽い気持ちで便乗された時はイラッとした。しかし、確かに二人で協力しチームとして、鍾乳洞までの山道を登り切ることができた。その実音の頑張りには、いい加減さや無責任さは微塵も感じられなかった。
 鍾乳洞の前で跳んでから戻ってきた時、倫也の頬をひっぱたいた実音の目は涙に濡れ、赤く腫れていた。Tシャツを濡らし、額からもしたたり落ちていた汗は、決して自転車を漕いだ時のものではなかったはずだ。倫也が跳んでいた間中、走り回って懸命に倫也を探してくれていたことは想像に難くない。
 一雄の家での花火に照らされた実音の顔は、かわいいという言葉では言い表せないほどだった。黒柴のバッグチャームは、いい出来映えとは言えないが、倫也のために作ってくれたことがこれ以上ないほど嬉しかった。褒めることが苦手だったから言葉が出てこなかったが、夏らしい装いはかわいかったし、朱莉に借りたと言う浴衣姿も魅力的だった。二人で散策したた飛高の街並みは一際輝いて見えた。もちろん、いちばんは祭りの日だ。縁日を見て回りいろいろあったけど、大きな打ち上げ花火を見て、そっと交わしたくちづけ。倫也のこれまでの人生で最高に幸せな瞬間だった。
 それはほんの一昨日ことだ。それからまだ、二日と過ぎていないのに、なぜ、こんな姿の実音を見ることになってしまったのか。天国から地獄へ突き落とされるという表現では足りないくらいの悲しい出来事だった。倫也は何度も何度も実音の名前を呼び続けた。
 耐え難いほどの悲しみに涙を流しながら、倫也は何だか奈落の底に落ちていくような気持ちがした。

(二十)

 ……いや、本当に落ちていく。足元から地面がなくなったように落ちていく感じがする。
 どこからか倫也を呼ぶ実音の声が聞こえる。最初は遠くで微かにしか聞こえなかった。倫也がハッとして耳をすますと、確かに実音の声だ。段々と近づいてきて、そしてついには耳元で聞こえる。しかし、体を起こそうとするが体が押さえつけられているかのように動かせない。無理に体を動かそうとすると、どこもかしこも痛い。懸命に目を開けたが、靄がかかっているように何も見えない。
「トモくん! トモくん!」
 確かに実音の声だ。少しずつ焦点が合ってくると、ほんの十数センチの所に実音の顔があった。
「トモくん!」
 目の前の実音の顔は、涙で濡れている。しかしその顔は悲しみの表情ではなく、希望と嬉しさに溢れた表情だった。
「意識が戻ったの!」と母の友紀枝の声。
「倫也!」と言う声とともに、実音の隣りに友紀枝の顔が現れた。
 二人の顔の後ろに白い天井が見える。倫也は自分が病院のベッドに横たわっていることを理解した。
「よかった! 本当によかった!」
と実音は倫也に抱きついて、何度も何度もそう言った。
 倫也は全てを直感した。そして、実音の手を握ろうとして手を差し出す。自分のその手には、黒柴が描かれたプラ板が握られていた。

(もう一つのプロローグ)

 一学期末試験が終わった翌日の午後のことだった。
 試験がやっと終わって、私はとても解放された気分だった。夏休みに向けて新しい服が欲しくて、栄まででかけてきた。今欲しいのは、ユニムラかシマクロのサマーウェア。どちらもおしゃれなセンスのいいウェアが夏の最終バーゲン中だった。でも、家の近くのショップでは売られている種類に限りがあった。栄にある直営店には、ネットカタログで見て、欲しいと思ったウェアがまだ残っていると話を聞いたから、とりあえず実物を見ようと思ったのだ。それで、実物を見て気に入ったらどちらかの店で買うつもりだった。
 両方とも見た。どちらにもおしゃれな気に入ったウェアがあった。でも私は、一度にたくさん買うほど欲深くもないし、はしたなくもない。この夏でいちばん気に入ったウェアに合わせたコーディネートを考えたかった。雨上がりの午後、蒸し暑い歩道で立ち止まって考える。どちらのショップからも同じぐらいの距離にある場所だ。右に行けばユニムラの店、左に行けばシマクロの店。決め手はない。私自身の決断だけだ。
 シマクロにしようと心が傾き、左に一歩足を進めたときだった。足元が微かに揺れた。地震だ。大した震度ではなさそうだ。しかしその時、轟音と共に鉄パイプが私のすぐ脇に落ちてきた。改修中のビルの作業用の足場が崩れてきたのだ。私は間一髪、その下敷きになるのを避けられた。でも、何本もの鉄パイプに挟まれ、身動きが取れない多くの人がいた。鉄パイプの下で必死に抜け出そうとしてもがく人がいた。そして私のすぐそばの鉄パイプの下から伸びているか細い手が見えた。もしかしたらまだ鉄パイプが落ちてくるかも知れない、二次災害に遭うかも知れないと危惧したが、その手を取って助け出さずにはいられなかった。その手を握り「今、助けるから」と声をかけた。その手の主の少女の顔は、苦痛に歪み涙を流している。そしてその顔は、どう見ても私自身の顔だった。そんなことはあり得ないと思いながらも、私の目には涙が溢れてきた。ありったけの力でその少女を助け出そうとしたが、重い鉄パイプを押し退ける力は私にはなかった。声を上げて周りに助けを求めるしかできなかった。

 あの時、私は二人になった。

(二十一)

 倫也が座った車椅子を押しながら、実音は病院の屋上へやってきた。まだ暑い日が続いていたが、今日はエアポケットのように涼しい日だった。
「そう、もう一人の私は亡くなったのね。」
 実音は悲しげだが晴れ晴れとした顔をしている。
「ちゃんと話してなかったけど、あの地震の日、私も事故に巻き込まれたかも知れないの。」
 あの地震の日、あの事故現場のそばで実音は、ユニムラの店に行くか、シマクロの店に行くかを迷っていた。もし、ユニムラの店に向かってたら、鉄パイプの下敷きになっていたと実音は思っていた。そして、少し悲しげな表情をして
「実はね、その時、パイプの下敷きになっている自分を見た気がするの。」
と言った。実音も並行する世界パラレルワールドへ迷い込んだのかも知れない。
「何かの見間違いかと思ったわ。」
 しかし、その後、ミオンの病室の前に跳ぶことがあった。
「まさに、トモくんが話してくれたような感じだった。」
 自分の世界線に戻ってくると母親に「どこに行ってたの、心配したのよ」と怒られた。実音は真夏の白昼夢ではないことは確信した。
「だから、トモくんの話を聞いて、すぐに信じることができたの。」
 ただ、実音の跳んだ体験は一度だけだった。だから、倫也の話に迎合するかのように自らの体験を話すことはできなかった。
「八つの世界線の可能性があったわけだ。」
 倫也にそう言われて、実音は怪訝な顔をする。猫田は、明清コンサルタントの悪事に荷担するかどうかを迷っていた。荷担することに決めてビルに入り事故を免れた猫田と、良心に従って歩道を歩いた猫田。
「実音と僕と猫田。二×二×二で八つだ。」
 もしかするとそれ以上にあるかも知れないが、倫也がわかる範囲では八つの世界線になる。『創造主』が決めた世界線のルールはよくわからない。実音はたったの一度切りしか跳んでいない。倫也は何度も跳んだが、跳ぶのも戻るのも突然だった。そして猫田は、もしかすると自由に跳べたのかも知れない。
「この世界線の猫田はどうしてるんだろうか。」
 調べればわかることだが、どちらであったとしても数奇な人生かも知れない。
 友紀枝が言っていた。
「えぇ、確かにあなたの同級生が見舞いに来てたわよ。同級生の他にも? さあ、どうだったかな。」
 跳んできた倫也のことは、友紀枝の記憶に残っていない。逆に、実音は猫田に会った記憶が残っている。別の世界線に跳ぶ者は、お互いの記憶が残るのだろう。
「百川で、トモくんは確かにアディクスの靴を履いてたわ。でも、トモくんのお母さんは、あの日新しい靴は買ってないって。そりゃそうよね、買う前に事故に遭ったんだもの。」
「僕の記憶では、アシッダスの靴を買おうと左に足を進めたんだ。それなのに、百川での記憶の中では確かにアディクスの靴を履いていた。けど、アディクスの靴はしっくりこなかった気がするなあ。」
 だから、怪我をした世界線が倫也にとって本来の世界線となったのだろう、と倫也は確信している。
「私はあの時、シマクロの服にしてよかったって思ってるよ。トモくんにも褒めてもらったし。」
 だから、実音は死なないで済んだのだろう。
「でも、ユニムラの服だって気に入ったものがあれば買うつもりよ。」
 ブランドで服を選ぶわけじゃない、自分の感性で選ぶと言う。
「百川の神輿はどうなっているんだろうか。百川の祭りは開かれたんだろうか。」
「そんなこと……ユーユーに訊けばすぐわかることじゃない。」
と実音はあっけらかんと答えた。
「うん……でも、訊くのが恐いんだ。」
「じゃあ、今度、行ってみようよ、二人でさ。トモくんのおじさんちはあるんだし。」
と言って、実音は倫也の顔を覗き込んだ。
「朱莉さんはどうなのさ。」
と倫也が訊くと、実音は眉を寄せる。
「実は私も、聞くのがちょっと恐い気がしてる。今のこの世界が、本当の世界なのかを少し不安に思ってる。目の前にいるトモくんは大怪我したトモくんだしさ。」
 そう言ってから、実音は顔を空に向け、大きく伸びをした。
「でも今、私は元気に生きてるし、百川へ行った記憶はちゃんとある。その中にはトモくんといっしょに自転車で鍾乳洞へ行った記憶もあるし、飛高の古い街並みを一緒に歩いた記憶もある。百川の祭りがとても楽しかったことも覚えている。」
「そうだね。他の人たちの記憶がどうであろうと、事実がどうであろうと関係ない。」
「そうよね。」
と言って実音はしゃがみ、倫也の顔を間近に見る。
「人の記憶なんて曖昧なものだし、僕たちに百川での二人の思い出が残っているなら、それは僕たちにとって正しい記憶であるし……。」
 実音は倫也の口元に顔を近づけ、もっとしゃべり続けようとする倫也の口を自分の唇でそっと塞いだのだった。

(了)

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鳴島立雄
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