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妻へ
僕と、君とでは、正直びっくりするほど興味の方向が違っていて、
僕が話していることを理解出来なかったり、君が話していることに全く興味がなかったりして、お互いよくイライラしていたね。
でも、完全に理解できる夫婦なんていないよな。そもそも他人だもの。
でもさ、たまたま興味、洞察があう人がいたとしてさ、その人が僕と一緒に暮らしてうまくいく確率ってどんなもんなんだろうって思うよ。
一緒に過ごす努力をともに出来る人と、自分と見ている方向が一緒の人は必ずしも同一である必要はないと今でも思ってる。
そしてそれを探し求める旅をするのもいいけど、そんなことより、一緒に食卓を囲んで、一緒に食べて、何気ない事を喋り、ふざけ、疲れて寝る。それが自然に何年も、何十年も出来る人って、実はそんなにいないんじゃないかな。
それには当然お互いに我慢したり、努力したりしてるからできることなんだろうけど、それが自然にできる、それが自分にとっての愛ってものなのかなって思うよ。
倒れてから、運良くこの世に戻ってこれたけど、当たり前の事実に気づいた。
死はとりかえしのつかないイベント。絶対に戻れない。
「死(=おわり)」を意識すると、今をどうやって輝かせるかを考え始める。病気になって、ベッドに伏せてからでは遅いんだよ。巻き戻せないからね。
人生は必ず終わる。もう一度いうよ。必ず終わる。その事実から逃げてはいけないんだ。明日かもしれない、来年かもしれない。運がよければ10年後かもしれない、20年後かもしれない。それは僕らには知らされないだけだ。
死後の世界とか(多分無いよ)、余計なことは考えないで、残りは短いと思って生きていたほうが、人生は意外と軽くなると思う。なぜかって、何が大事で、何が大事でないかをいやでも区別しなくてはいけないからね。
僕が死んだら、君は途方に暮れて悲しむんだろうな。もうああやってふざけて笑い会えないのかって(そうじゃなかったりして…)。逆だったらどうかな、僕も多分途方に暮れる。。
でも、なぜか思うんだ。1日1回でも、お互いの終わりをイメージしながら生きていくことは、今を楽しむ原動力になるんじゃないかって。これもあんまり理解してもらえないかもしれないけど、僕はそう思ってる。他のことは、どうでもいいけど、君と過ごす時間だけはその気持で全力で過ごそうと思ってるよ。