ソ連MSX物語③MSXに魅せられた男達
皆さんは初めてパソコンを手に入れた日のことを覚えていますか?僕は興奮のあまり一睡もできず、夢の中でもMSXで遊んでいました。
1985年の夏にMSXを贈られた6人のソ連技術者達も全く同じだったそうです。仕事中も終業後もMSXのことばかり・・・ただ彼らが決定的に違っていたのは、PC雑誌やPCショップなどMSXの情報を得る手段が何もなかったことでした。
ソ連技術者達はあまりMSX BASICを使用しなかったようです。と言うのも付属している日本語マニュアルが読めなかったからでした。父もパソコンには不得手だったため、完全にロシア語に翻訳出来なかったのです。その為彼らが真っ先に習得を試みたのは神々の言語と呼ばれるマシン語・アセンブラでした。
これにはある伏線があります。ソ連MSX物語②でお話しした通り、それより約1年前の1984年にソ連の工場ではPC8801mkⅡが導入されたのですが、そのマシンをソ連技術者達はある程度研究していたからなのでした。
ご存じの通りPC-8801のCPUはμPD780C-1というMSXと同じZ80系列です。全く違う2つのパソコンの心臓部が同一構造であることに気が付いた彼らは、昼夜を問わずその解析に没頭します。父が選別した技術者は高等数学の成績優秀者ばかりだったこともあり、瞬く間にZ80のアセンブラを習得したのでした。
父がPCの教育用にMSXを選択したのはナイコン少年の僕がMSXマガジンを愛読していた全くの偶然でした。もし読んでいたのがOh!FMであったならFM7が選択され、CPUはモトローラのMC6809だったので全然違った展開になっていたかもしれません。
余談ですが何故NECの入門機PC-6001を選択しなかったのか父に聞いたことがあります。父は日本電気精器と言う日電系の会社に勤めていたのですが、NEC本社の営業部門が非常に非協力な態度だったため、父が怒って交渉を打ち切ってしまったからなのでした。
それでは具体的にどのようにソ連の工場内でMSXが使われていたのでしょうか。
元々父の専門は検査技師で、それまで手動で行われていた品質検査の集計をPC8801で行うようになったことが発端でした。
工場の最終的な能力は製造品の品質検査に集約されるため、特に力を入れて指導していたと言います。ソ連工場の検査技師は1000人を超える工場従業員から父が特別に選抜した精鋭だったそうです。そのうちの6名がソ連MSXチームの中核となったのでした。(僕の勝手な命名、彼らはэлитные силы精鋭部隊を自称していました)
彼らの悩みは肝心のPC8801が一台しかなく、工場の生産規模に対して少なすぎることでした。
「何とかしてMSXを検査データ管理に活用できないか?」
MSXに魅せられた男達のあくなき挑戦が始まったのです。
ご存じのようにPC8801とMSXでは全く構造が違います。しかも肝心のプリンターがPC8801に接続された1台しかないので、どうしてもデーターを移管する必要がありました。
資料も情報も何もない状態でしたが、この世界の名言「無いなら作れ!」の合言葉はパソコン未開のソ連でも全く同じだったのです。
ソ連MSXチームはPC8801の付属していた品質管理ソフトを自己解析し、MSXでプログラミングした独自のデータ管理ソフトの開発についに成功したのです!記憶媒体が同じテープと言うことも幸いしました。
その頃何も知らずに日本に戻っていた父は、現地のバクーからとんでもない報告書を受け取ることになるのです。
全くの余談ですがソ連MSXチームが悪戦苦闘していた1985年の夏に僕が何をしていたかと言うと…
つくば科学万博で2000インチTVジャンボトロンで行われていたMSXロードランナー大会に参加し「何が何でもMSXを入手する!」と神に誓っておりました。
父は父で科学万博のソ連館のソ連人女性コンパニオンの勤務態度があまりにも酷いので、ロシア語で説教をかまして大喧嘩?したりしていました。ここら辺の顛末も何時か物語にしたいですね。
タイトルの写真は1971年に父が1年間バクーに滞在していた時の写真。ソ連独特のデザインのバスが印象的です。
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