病気は「分からない」から怖い
正体不明なものを人は最も恐れる
かつて医療分野で、心理の研究をしていた。
その中で最も忘れられないのが、慢性疾患を抱える人たちの心理。難病を何十年も抱えて生きている人たちの心理を理解するために、たくさんの当事者と話した。
〇〇病になったことのない貴女に言っても分からない
温厚なマダムは、生意気な小娘の私にそう言った。それは健康な若者への妬みとか、病気が理解されない怒りではなく、私に真理を教えようとした。
どれだけ理解しようと努めても、体験しないと正確には分からない。理解し助けたいと奢る私には、とても痛い教えだった。
病気になる「理由」の必要性
患者さんたちの多くは、遺伝だから、若い頃に〇〇ばかりしたから、などと自分なりに原因を考え続けていた。まるで自己弁護を探るように。
病気という「罰」を受けるだけの理由がある、と考えるのは合理的だ。
例えば「ネイルのしすぎで自爪を痛めた」は理解しやすい。その行動を控えていれば、やがて新陳代謝して健康な爪がまた生え変わる。原因となる行動を止めることで改善すると約束される。学生時代に習った、キューブラー・ロスの5段階がそこに在った。
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取引の段階では「治ったら二度と嘘をつきません」のような、行いを検めることで神の罰を取り消してもらう。「毎日〇〇すれば治るはず」というのもまた、取引だ。善行をすることで、自分に与えられた罰を取り消してもらう取引なのだから。
キューブラー・ロスの5段階は、病気で死ぬ前の患者心理だけではない。それこそ病気だけではなく、降りかかってきた不幸への対処としても、人間の根本的な「不幸の受け入れ方」なのだと思っている。
※もっと言えば、1段階から5段階まで順調に昇っていくわけではない。2→3→5→1→4→1 みたいに反復したり戻ったりする。
整合性を保つことは、自分を守ること
何故自分がこんな病気になったのか。自分のどこがいけなかったのか。どうすれば治るのか。
前述のマダムのように受容している人は私に優しかったが、当惑し怒りの矛先を探している人も居た。病気への理解を広めたいとか青臭いことを言う学者なんて腹立たしい。私が患者さんの立場だったとしても、嫌味の一つは言いたい。
不幸にも私はその研究を終えた数年後、自らも別の難病にかかった。線維筋痛症というもので、原因不明・治療法なしという状況は同じだった。
その時やっと、あの時のマダムが何故そう言ったのかを理解した。怒っても泣いても取引を持ち出しても、病気は改善しないともう分かっている。だったらせめて、納得したいのだ。理不尽な不幸に遭っていることを受け入れるのは、簡単じゃない。
一番ショックだったのは、診断の時すぐに医師が「原因も治療法も一切ない」と断言したことだった(当時はまだ薬もほとんどなかった)
プロから「死ぬまで無理」と断言された上に、自分の悪癖を原因にすることさえも許されない。なら誰に、どこに、怒りをぶつければいいのか。
分からないことは、受け入れにくい
現代社会は医学や科学への理解が、一般の我々も進んでいて、ある程度の病気の知識がある。それでもなお理解できない、というのが、余計に辛いのだ。これだけ発展した社会の中で、自分だけが得体の知れない不安に囲まれて、孤立している。難病の抱える闇はそこに在るのだと思う。
自分の線維筋痛症に対しては「いっそ神が与えた罰なら良かった」と何度も思った。何でもいいから、どうしようもなく体が痛む理由が欲しかった。理解してもしなくても、痛いものは痛いんだけど、せめて自業自得とか、何かしら腑に落ちる理由を以って耐えたかった。
先ほどの「取引」の説明で、皆さんは気づいただろう。代替治療を謳う悪質な詐欺がまさに、それを悪用したものだ。
現代医学が与えてくれない「今自分の体が痛い理由」を与えてくれる。改心すれば治るというシンプルな原理は、強い説得力を与える。闇に付け込み、光もどきを見せて、お金を要求してくるわけだ。(私は当時の職業柄、悪質な代替治療を糾弾する立場だったので、この場でも一切擁護しません)
でもそれは悪意を以って利用する場合だけではない。善意でアドバイスされることも多々ある。その方がむしろ危険だ。批難しづらいから。
その症状ならこの病気かも、こういう先生にかかるといい、生活習慣をこう変えると治るらしい。そういったアドバイスは山ほど貰える。
だがそのアドバイスが何一つ役に立たないこともある。推測祭りになるだけで、神輿で担ぎ上げられる方としては実に迷惑だ。いっそ無視してくれた方がいい。
残酷な善意は心に重く圧し掛かり、半端な希望が一番の絶望を産む。
「理屈がある」というのは幸せな事だ。
いつか科学が勝利して、失望を払しょくできる日は来るだろう。それまで周りの人間が出来ることはあまりない。自分がケアされる側になった今でさえ、人のケアが完璧にできるわけじゃあない。
私達に出来ることは「分からないこともある」「できないこともある」と受け入れることだ。
原因が判明したからといって痛みは減らないが、理解できないものを受け入れるのは難しいのだ。自分が痛みに耐えるべき理由を見出したくなる。
この理解は周りの病人を救うためではない。いつか自分が理不尽な事故や病気になった時に、たぶん役に立つと思う。私のように。