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29歳から英会話教室に通って、人生の路線が1本から2本になるまでの話

トップガンが大好きでとにかくアメリカに憧れた。
戦闘機のパイロットになりたかった中学時代。

自衛隊員の伯父さんにその夢を語ったが、

『女のパイロットはいないな』と、夢はあっさりと砕かれた。

女性パイロット1号になろうと言う発想がありませんでした。

ただ、 そう言うもんだと思っていました。

マンガの影響でダンサーになりたい、ニューヨークに行ってみたいと思い詰めた中学時代。

しかし、私が住んでいる田舎にはダンス教室など無く、ダンスを独学し、練習する術もありません。
レンタルビデオ屋さんも無いので、映像が手に入らなかったのです。
それでも本物のダンス見たさにテレビの番組表でダンスが見れないか探し、VHSに収めたのはボレロ。バレエですが、私の中ではダンスなのです。

ダンスの熱量はものすごく、心臓がトクトクと興奮していた感覚は、今でも鮮明に感じる事ができます。

アメリカへ行きたい気持ちは強く、でも親には言えなかった。

家では口数が極端に少ない大人しい子で、語彙力が極端に無いために自分の思った事や感じた事を伝える事が出来なかったのと、滅多には言わない自分の思いを伝えた時には必ず否定と考え方への矯正が入るので、自然と何も言わなくなっていた。ケガをして血が出ようが、転んで膝に水が溜まっていようが、親に気づかれるまでは何も言えなかった。何故か恐怖で言えなかった。

ましてや外国に行って、ダンスがしたいなどという夢は、私の親にしてみたら月に行くと言っているのと同じ。

叱責の後には確実に矯正が入るバカな発想でした。

言えぬまま時が過ぎ

それでも高校3年の進路を決める時期にはアメリカ留学がしたいと言ってみた。

もちろん大反対。

それどころか 、地元の短大へ行けというのです。ピンポイント。幼児教育と裁縫の勉強をしろと言うではありませんか。結婚してから役に立つと言う理由で。

本当の理由は、女が学を付けると結婚しにくい。

 年老いた母が後に言っていた。

親が怖かった私は親に反発をして、自力で留学しようと言う発想すら無かった。

勉強の仕方の分からない私に、興味すらない分野を勉強しろと言われても。

卒業しても進路は決まっていなかった。

いきなりニート。いきなりステーキだったら美味しかったのに。。

ただ、生きている私。

流されるままで、近くの中小企業に就職、退職。その後は何となく近くの歯科医院へ就職。

親が自営で商売をしていたので、私に婿養子が欲しかった。
20そこそこからお見合いを何度しただろう。

私には恋人がいたが、怖くて言えなかった。

 『会ってみるだけ会ってみて』を聞くのが憂鬱だった。
会った後に断りを入れるのはもっと憂鬱だった。

結婚適齢期が過ぎ、27歳の時に自分の選んだ人と結婚した。
次男坊。婿養子です。
母は顔が嫌いと言っていたが、適齢期を過ぎた娘に次男だものと
諦めた様子だった。

結婚式の準備が酷かった。何もかも母が決めた。
私の友達や同僚は何人か削られ、お得意様や取引先様、町の有力者様優先で招待客が決められた。彼の側への配慮は微塵もなく。
式場も形式も、メニューも、ドレスも何もかもで、一つも私達の決めた物や事はなかった。

アホみたいに豪華な結婚式だなぁと思っていた。

新婚旅行はハワイだった。

ここで子供の頃の夢を思い出してしまった。
英語が喋れるようになりたい。

そんなこんなで新婚生活は始まったが、こんな親なので彼とは対立した。
それでも彼は頑張った。私と彼は家業を継いだが5年で終わった。

29歳から趣味で始めた英会話。教室に通うのが楽しかった。
家庭のいざこざで精神が崩壊しかけていたが、ネイティブの講師が
つたない英語で言う、私の悩み事を真剣に聞いてくれた。
そしてアドバイスをくれた。
このカナダ人女性の講師は心理学を学んでおり、休学して日本に学費を稼ぎに来ていた。カウンセリングに行くようにと強く勧められた。日本人はなぜ精神科へ行くのをそんなにも嫌がるのかとも聞かれた。

当時はまだ精神科でカウンセリングを受けると言う文化が日本では少なく
ましてや田舎には根付いていなかったので、精神科医が少なかった。
それでも意を決して行ってみた。

鬱だと診断されても、鬱と言う言葉を知らなかった。
ノイローゼですと言われてやっと分かった。
軽いノイローゼかと思っていたけど、
重いノイローゼだと言われて困惑した。
仕事禁止、入院は拒んだが自宅で安静にしていなければいけない。
何もしてはいけないと言うのです。困惑した。
ぼんやりしていろと言うのです。

しかし、それは出来なかった。
診断結果を親に伝えても信じてはくれなかった。
気の緩み、怠けなので、ぼーっとしていると叱られた。

彼は精神崩壊しかけて、家を出て行った。
毎日怒鳴られては仕方がない。

私はとうとう動けなくなってしまった。
食べれなくなってガリガリに痩せた。
起きれなくなった。

毎朝、怒鳴られても。怒鳴られても
動けなくなってしまった。

家を出て、彼の所でお世話になった。
夫婦関係は良くなかったが、いさせてくれた。
初めから私は彼を愛してはいなかったと気づいた。
なんて冷酷だったのだろう。
彼には心があった。思いやりのある人だった。

結婚生活は終わった。

実家には戻りたくはないが、お金もなければ住む家もない。
一時の住みかと思い実家に帰った。

自分の道を歩くと決めた。父親に英語で食べていくと告げた。

『馬鹿か!お前は俺の敷いたレールに乗れば良いんだ!』
だった。

無言で耐えた。
二度と戻りはしない。

そのレールには妹が乗り、小間使いになり耐えているが、
金は使いたい放題で物欲を満たしているので良いのだろう。
また、そうしなければ続かない。
しかし、ガリガリに痩せてしまっている。
幸せは金や物では満たされないと、私は勝手に思うのだけど。。。。

私は家を出て、自分で敷いたレールに乗った。
鈍行列車は一両編成だが、まだ運行している。


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