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みんながバラバラに生きたり死んだりする訳

 ひとが死んだり生きたりするのは誰のせいでもない。

どんなにおばあちゃんやおじいちゃんに生きていてほしくても
どんなに神様や佛様にお願いしてもやっぱり死んでしまう。
あのときどうすれば長生きしてくれたとか思っても死んでしまう。もっと車いす押してやったり会いに行きたかったと後から後悔したとしても、仕送りしてやれば良かったと地団駄を踏んでも、死ぬ本人はそんなことを待たず、やっぱり死んでしまう時は死ぬ。
おじいちゃんたちだけではなく、若い人の死なら尚さら、「自分がこうすればあの人は死ななかった」とか「ああすれば思い直してくれた」とか色々関係する人らは後悔して泣くだろうがの。
でも、その時点で結局死ぬ人は死ぬ。生きる人は生きる。
死のうとしてもその時は失敗したり、本人のやったとおりに死んだりする。
なんでかっていうと、みんな自分のタイミングで生きてるから、
自分のタイミングで病になったり、怪我したり、気がふれたり、
結婚したり、死んだり、生きたり、進学したりするんじゃろ。

だから人が生きたり死んだりするのは各々のタイミングだから
自分を責めたり後悔しても何かの解決にはならんのではないか。
生きたり死んだりすること自体に責任も屁もないじゃろ。
みんなそれぞれ生きたり死んだりするのは、葉っぱとかと同じだろうがの。
大学生もいれば赤子もいるしおっさんも老婆も中坊もいる。
至る所でいろんなタイミングで様々な人らが死んだり生きたり車にひかれたり気がふれたりしている。
病気が治ったり、もしくは治らないで死んだりしている。

今日、ニンテンドースイッチでシャドウボクシングをやってるときに
急に自分がニヤニヤしていることに気がついた。
それも長くは続かんかったが、それがいい気分だった。
自分の長く生きてきた人生でそんなふわっと金木犀の香りを感じるような、ふわっといい気分になる事は何個かだけしか覚えとらん。
でも、どんなにシャドウを続けててもいつニヤニヤできるかは
わからん。もうそんなタイミングは来ないかもしれん。己の病もこの先ずっと治らんかもしれん。

人が逝ってしまうことだっておんなじで、病気で心臓が止まったという理由でも自分が選んで死んだという理由でも、その人の命のタイミングだろうがの。

だから悔しくても悲しくても「残されてしまった」とか、「どうにか出来た」とか考えるのはそれは自分を苦しめるだけだと思わんか。
逝った人の成仏を心の底から願うと言うのなら、その人のタイミングを、このタイミングだったのか、と受け止める方がよっぽど成仏するんじゃないか。天国に行けるのか三途の川を渡りきれるのかという判定に、生きてる人がどの程度後悔したとか泣いたとか苦しんだとかのポイント加算などないだろうがの。

アルマゲドンの映画だって、あの主人公のおやじが隕石みたいなのを命をかけて爆破しようがしまいが、地球が終わる時は終わる。
それは隕石やら地球のタイミング次第だろが。
ストⅡでキャンセル技もマスター出来ないのに、人の命にどうこう影響を与えられるなんて無理。
だから病が治るのも、死ぬのも、生まれるのも、おのれがどうこうすることじゃない。タイミングじゃ。
自分を単に苦しめたいなら後悔するのもよろし。
でも「逝った人がそれを望むのか?」と自分で考えてみて、
その答えがYESなら後悔して苦しみ続けるのもよろし。
NOであるならば、ふっと楽になるような、来るか来ないか分からぬタイミングをぼんやり待ちつつ毎日生きるのが吉じゃ。
しかも、YESを回答した人でも、ふっと楽になるタイミングが来るときがあるかもしれん。それがきみの立ち直るタイミングじゃろ。

色んな人が色んなタイミングで働いたり、便所に行ったり、死んだりしてるから、だからみんな一気にダメにはならんのではないか。
ダメになりそうな人をその時そこにいた自分が支えてやれるタイミングがあればこんな嬉しいことはない。

赤子でも、病人でも、気のふれた人でも、葉っぱでも、虫でも、プラモでも、誰かを、何かを支えてやれることができるタイミングがあるなんて、
いいことじゃないか。

だからきみが頑張れる人間であっても、一人で頑張ることはないのだよ。
一人で立ち直る必要も、理由もないんだよ。

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