【舞台】Nana produce Vol.13 「追憶」を観て
舞台の中にこれでもかと細かくちりばめられた仕掛けについて、そこに込められた意図のすべてを僕は理解出来ていなかったかもしれません。
ですが、画面を通して伝わってくるただならぬ空気は痛いほどに感じました。
今回は、珍しく舞台に関しての感想を書いていこうと思います。
2021年1月20日~24日にかけ、新宿のサンモールスタジオにて行われていた舞台「追憶」の配信を観ました。
「罰チーム」と「罪チーム」に分かれ、座組を替えた2種類の公演でした。
僕がこの舞台を観ようと思ったきっかけは、東京パフォーマンスドール(TPD)の櫻井紗季さんが主演を務めることを知ったからでした。
たしか昨年の末に行われたTPDのライブのMCにて、本人からこの舞台についての告知がなされていたような気はするのですが、あくまで気がする程度で、その時にはさほど気に留めていませんでした。
なぜ急に観ようと思ったのか。
そこまで深い理由はないのですが、これまでnoteに投稿してきた内容に偏りを感じていて、趣向を替えて舞台のレポでもしてみたら面白いのではないかとなんとなく思ったからというところがあります。
ただ、思い立ったのは年明けだったため、このころには既にチケットも完売していました。
そのため、千穐楽後の配信で見るよりありませんでした。
生で観ることは叶わなかったのですが、配信映像の画質は綺麗で、しかも次々と移り変わる会話劇の間、セリフを発する役者さんたちをつどカメラが丁寧に抜いてくれていました。
そのため、表情もしっかりと捉えられ、配信でも十分なほど楽しめました。
僕のような舞台初心者にとってはむしろ配信の方が良かったのかもしれません。
さて、この「追憶」は、違う座組で過去に何度か演じられた題目らしかったのですが、僕は舞台に疎いのでそんな事実すら知りませんでした。
あらすじ含め、前知識はまるでない状態での観劇です。
一応この記事が出るタイミングではアーカイブ配信も終わっているのですが、なんとなく核心に迫りすぎるのも良くないのかなと思うので、その点だけは気を付けつつ見ていきます。
次に何が起こるか分からない面白さ
◆あらすじ
「私を死刑にしてください」
彼を愛していたという彼女の言葉には
多くの矛盾と謎が・・・
なぜ恋人を殺してしまったのか?
彼女の過去、大きな闇、
それらを紐解いていくなかで
彼女の秘密が、そして
この事件の本当の動機が明らかになっていく。
先述したように、僕にとってのこの舞台の入口はあくまで櫻井さんで、ひとたびグループを離れた彼女がどういった演技をするのかを見に来たつもりだったのですが、結果としてすっかり舞台そのものに引き込まれてしまいました。
「罰チーム」と「罪チーム」、2種類の公演のうち櫻井さんは「罰チーム」の主演だったのですが、罰チームを観終わったあとにどうしても気になって罪チームのほうも観てしまいました。
この記事でも櫻井さんにフォーカスを当てる予定でしたが、舞台があまりによかったので前半では全体の雑感を書いていこうかと思います。
櫻井さんについては後半に触れることとします。
ストーリーは、あらすじにもあるように主人公の「さくら」が恋人を殺してしまった。
この事実から始まります。
なぜ殺したのか?さくらの背景は?
物語を通してこうした謎が明らかになっていくわけです。
例えば、この謎を解くキーとしてはいわゆる「多重人格」があったりします。
ただ、「追憶」が面白いのはただのサイコものに終わらないところで、多重人格というのはあくまで表面上の解釈でしかありません。
感情や背景はとにかく入り組んでおり、先が読めない不穏な空気が終始流れていました。
特に櫻井さんの罰チームはテンポの良い会話劇が中心となっていくのですが、速いテンポの掛け合いの中にちりばめられた言葉のそれぞれが意味深に思え、それらを咀嚼しながらストーリーを解釈するというのはなかなか頭を使います。
上映時間は75分ほどと映画の半分程度ですが、それくらいの時間でも「考えさせる系」の映画のときと同じくらいの体力を使ったなという感覚です。
少し脱線しますが、音楽の良し悪しを評価する分かりやすい指標として、「途中で聴くことを中断できるかどうか」があると本で読んだことがあります。
初めて耳にする音楽に対し、聴いている途中で止めてしまっても後悔はないのか。
それを自分に問いかけた時、止めることを惜しむようであればそれこそが自分にとって良い音楽なのではないか、というざっくりといえばこのような解釈が書かれていました。
本に書いてあった内容としてはここまでですが、個人的に、中断できるかどうかを決める要因として「次に何が起こるか」という不確かさの中にワクワク感を見いだせるかどうかということがあるのではないかと思っています。
音楽でこそありませんが、この「追憶」においても「次に何が起こるか」という感覚が最後まで残っていたように思えました。
内容を理解するのに脳が忙しくとも、休憩として配信の停止ボタンをクリックすることは最後までありませんでした。
これこそ、僕が「何が起こるかわからない感」をこの舞台に感じていたことに他ならないのかなと感じています。
途中で停めてしまい、現実世界に戻ってしまったら、次に再生しても舞台の空気に入り込める気がしないという感覚を覚えていたのかもしれません。
また、同タイトルで「罪」「罰」と2種類の公演がなされましたが、両方を見比べるとストーリーの大枠は同じであるものの、小道具の使い方や配置、照明の当て方、セリフの微妙な言い回し、場面の切り取り方など細かい所に様々な違いがありました。
罰だけではあまり見えてこなかったような点が、罪で補完されるように明らかになっていった部分もありました。
両者が合わさって一つの「追憶」となっていることを思い知ります。
悲しみの中では生きられる
次に、「追憶」を観て教訓的に思ったことを、このストーリーの核となっている「思考」「悲しみ」の観点から見ていこうかと思います。
「追憶」ではストーリーが進むにつれ、事件の謎の判明とともに、そこにはさくらが体験したとある「悲しみ」が遠因となっていることも分かっていきます。
様々な感情が交錯しているシーンがあちこちにあり、それらにさくらの心情が投影されています。
ここからは僕の憶測であると前置きしますが、事件の謎が明らかになっていくことによって、さくらは自分が悲しみに大きく依存して生きてきたことを自覚します。
ここがさくらにとっては一つのショッキングな事実なのですが、自分自身のことを思い返しても、これはなにもさくらにだけ特別なことではないのではないかと思えてきます。
さくらは悲しみの中に生きてきたことをマイナスに捉えていましたが、実はそれこそがさくらの心の拠り所となっているのかもしれない。
そしてそれは現実世界を生きているわれわれにも広く当てはまることではないか。
そんなことをふと考えてしまいました。
ふと頭をよぎったのが次の言葉でした。
人は悲しみの中で生きて行けるけど、苦しみの中では生きていけない
記事のテーマが舞台なのに突然テレビの話をして恐縮なのですが、これは、3シリーズにわたって放送された真矢みきさん主演の夜ドラ「さくらの親子丼」にて、真矢さん演じる主人公の「九十九さくら」が物語の要所で発するセリフです。
図らずも、ここでも主人公は「さくら」ですね。
ややこしくしてしまいましたが、ドラマのほうはフルネームで書きます。
自らも深い傷を負った九十九さくらが、時に同じような悲しみを背負った人や、ある時には自分に言い聞かせるように随所でこの言葉を残します。
正直ドラマを観た時にはこの真意がよくわからなかったのですが、「追憶」を観ることでなんとなく分かったような気もしますし、両者で通じる所も感じました。
追憶に合わせて解釈するのであれば、一見マイナスな感情である悲しみも、自分の大事な内的の感情の一つであり、排除すべきものというよりもむしろその背中に寄りかかりつつ生きている部分があるのかもしれません。
一方で、「痛み」はもう自分を超えてしまった何かに縛られている状態、苦しみであり、ここに生きるようになってしまったらその時点で「もう無理かもしれない」と思わざるを得ないのかもしれません。
そうした考えが、苦しみでは生きられないけれど悲しみでは生きていけるという言葉に繋がってくる気がします。
では、悲しみの中に生きなくなった時にどうなるのか。
ここまでの文脈で考えると、罰チームの最後に主人公のさくら(アキ)が発した言葉はあまりにも深く聞こえます。
個人仕事の見方が変わった
最後に、追憶で主演を務めた櫻井紗季さんのことについて書こうかと思います。
この舞台を通し、アイドルの個人仕事に対しての見方が変わったような気がします。
そこで、最後には舞台で主演を務めあげた櫻井紗季さんのことに触れつつ、僕の中でどう変わっていったのかを書いて記事を締めたいと思います。
櫻井さん含めTPDのメンバーは、舞台やミュージカルへの出演をたびたびしており、その告知のたびに「個人仕事をグループに生かしたい」と言っていました。
数カ月続いたライブシリーズが一区切りしたころ、一旦ワンマンライブは置いておき、それぞれの個人仕事にフォーカスするなんていう時期もありました。
櫻井さんがこの舞台に出ている期間も、他のメンバーはミュージカルに出たり美容関係のお仕事をしたり、少し前ですが朗読劇にも出たりと、グループ外でのメンバーの活躍は精力的です。
ですが、個人的なわがままを吐き出すことが許されるのであれば、僕は個人仕事というものに対してあまりもろ手を挙げて賛成、とはなかなかなれていませんでした。
もちろん、グループを離れての活動の大いなる意義は分かっているつもりです。
それぞれの現場でファン層を広げることもあるでしょうし、実際美容系やミュージカル経由でファンになる方もいらっしゃるようです。
何より、アイドルもいつまでもアイドルをやっているわけにもいかないでしょうから、セカンドキャリアとしての選択肢を増やすという意味でも個人での仕事はかなり大事だということは承知しています。
それを応援することこそファンとしてのあるべき姿だという考え方にも大賛成です。
ただ一方で、僕にとってはあくまでメンバー全員揃ったグループとしてのライブあってのものだと思っています。
その中で、稽古などある程度の準備期間が必要となり場合によってはグループでの仕事に穴を開けるような「舞台」の存在というのは、貴重なライブの機会を失くすものとして、正直複雑な目で見てしまっていました。
だからといってSNSなど本人の目につく可能性が少しでもある所に発信することもしませんでしたが。
書き方で微妙なニュアンスをお伝えできているかわかりませんが、あくまでちょっとした違和感があったのです。
そもそも、ひねくれた見方をすると「還元する」ということも言い方ひとつのように思え、その実体というか意味をあまり理解できませんでした。
ですが、今回の舞台での櫻井さんの演技ぶりを見ると、「還元する」ことの意味が分かったような気がするとともに、自分はこれまでなんて浅はかな考えをしていたのだろう、とその偏屈ぶりを反省せずにはいられませんでした。
今回とくに印象的だったのは感情の移り変りです。
櫻井さん演じる「さくら」の役どころは難しく、感情があちこちに目まぐるしく変わります。
涙を流しながら震えていたと思ったら次の瞬間には満面の笑みになる。
その忙しさはまるでジェットコースターのようです。
脱線するつもりはなかったのですが、「ジェットコースター」と打っていたらふとこの曲が頭に浮かんでしまいました。くしくも櫻井さんのユニットです。
それはそうと、櫻井さんの役どころは曲で例えるなら、Aメロでは「悲」Bメロで「喜」、そしてサビではふたたび「悲」といったように、感情の切り替わりがとてつもなく急にやってきますし、それぞれの落差が大きいです。
テンポの良さで言ったらメロディごとというよりも「小節ごと」くらいのペースかもしれません。
けれども、実際のアイドルの曲において、ABメロで感情が大きく変わる曲というのはそうそうありません。
多少の幅はあるといっても、その振れ幅だってさほど大きくありません。
僕はよくライブレポにて「表情の切り替えが素晴らしい」と書きますが、これはあくまで曲の間での表情の切り替えの話です。
アイドルのライブで要求されるのは曲単位での切り替えに過ぎないのです。
ですが、先述したように、櫻井さんは曲間どころではない、小節単位でそれをやってのけました。
この舞台、冒頭からさくらの感情はピークに達します。
このシーンについて、彼女は「集中力」をもって乗り切ったとブログにて「追憶」しています。
彼女はそう一言で言っているものの、実際にその演技を見ると自分が想像しているレベルの想像力では到底やり切れる気がしません。
想像もできないような高いレベルでの集中力となっているのだろうなと邪推するばかりです。
このようなスキルや集中力は、グループとしてステージに立った時に大いに生かされるような気がしてなりません。
TPDのライブで歌割がない時でも、彼女はどういう表情をするのだろうと櫻井さんを目で追ってしまいそうです。
TPDは2月14日に、渋谷ストリームホールにて2カ月ぶりのワンマンライブを控えていますが、もともと心待ちにしていたのが今回の舞台を観てより楽しみになりました。
個人仕事で自身の可能性を広げたメンバーの良いところを観れればなと思います。
見出し画像、本文中画像ともにNana Produce HPより