わたしの美しき人生論 第7話「お赤飯を炊かなくちゃ」
ユハは眼前にそっと置かれたホットワインを見つめる。
「なにこれ?」と彼女が問いかける声には、ひどいいらだち、まるで朝の朗らかさはすっかり消え、相手を非難するするどい怒りの音色がこもっていた。
ニッキは、まるでだれかから頼まれた伝言を伝える使者のごとく、「ホットワインです」と、静かに、動揺する気配もなくこたえた。
「お酒なんか望んでないよ。もっと実用的な、痛みを和らげる何かはないの? ひどい生理痛なの」と、ユハは無意識か、あるいはニッキにあえて気づかせるためなのか、大きく貧乏ゆすりをくりかえした。
「申し訳ありません、この部屋に薬はないのです」と、ニッキはあいかわらず、凪いだ湖面に小石を投げ入れるような、無感動な声で返答した。
「じゃ買ってきて。って言っても、あんたは自発的奴隷なんだったね」
ユハの嘲りにも、ニッキは動じることなく、「薬草屋が店じまいしておりましたの。……そのワインは、乾燥した薔薇の花びらと赤紫蘇や桂皮、陳皮を混ぜて沸騰させたもので、街の娘たちは月経の間これを飲みますわ。体があたたまって楽になります」
「魔女みたい、すり鉢なんか使っちゃって……痛み止めが一錠があれば十分でしょ?……病院か薬局か、街にひとつくらいあるでしょ。ここがどんな田舎だか知らないけど……」
神経質ぎみに手をすりあわせながら、ユハは窓の外に広がる街を見下ろした。
ここがどこで、自分は誰なのか、なにもわからないままこの不可解な街の住人となった。そして、自分の足の爪垢に至るまでが、この街の男たちに求められるという不気味な真実に直面し、ユハは冷え切った恐怖に包まれていた。
ニッキは台所で夕食の準備をしていて、ユハのほうを見向きもしなかった。
「ええ、療養所みたいな場所が、市場の近くに一つあります。でも、薬があるかどうかは……」と、ニッキは少し考え込んでから、言葉を続けた。「療養所でもあるし、緊急用病院でもあるんです。つまり、先進的な医療はそこにしかないんです……この街には……」
「この街には皇子もいて、立派な大聖堂もあって、それなのに薬のある病院すらないの?」
「ええ。病気にかかっている人は、見たことがありません。ネイヴが狂ったように酒をやったりするのが、病気ではないっていうなら……」
「病気がない?」 ユハは驚いて聞き返した。
「疫病が流行ることもありませんし、ちょっとした風邪は、薬草をお茶に漉して飲めば治りますわ。枯草熱だって、そうやって対処するのです」
「なんだか本当に……古い場所」
ユハは相変わらずむかむかしていたが、それでもこの街が美しいことは否定できなかった。絵画でしか見たことのない、古い石畳の道。 街の中心には広場があってひねもす市場が開かれている。噴水があり、川があり、アーチ状の橋がかかっている。川に沿って古本屋が立ち並び、子供たちが絵本を立ち読みしたり、靴磨きたちが座っている。川は国一番の商業港湾まで続いているという。
「夕餉のお時間です」
ニッキが銀食器を持ってきて、テーブルクロスの上に並べた。美しく盛り付けられた料理が次々とユハの前に置かれた。それはまるで、遥か昔の忘れられた祝宴の一幕を再現するかのようだった。切り落とされた首。息苦しいほど甘ったるい麝香の匂い。王女の口吻。ネイヴ、私はなぜユハなの?
ポタージュは真珠のように純白のクリームが波打ち、その中には最上質の野菜と香草が、宝石のような煌きを放っている。それに、子羊の鞍下肉を赤ワインと香草とスパイスで煮込んだもの。金箔をまとった完熟の桃、そしてみずみずしい葡萄やラズベリー。「おめでとうございます、ユハさま」
豊穣の女神よ、魂の宿り木へと変容した肉体への祝杯を。「アンブロシアですわ」
ワイングラスに注がれた甘い蜜のような酒は、ユハの、自分の肉体への嫌悪感を有無を言わせず曖昧模糊にした。森を駆け巡る清涼な風、太陽の下で熟れた果実の香り、そして遠い異国の地から運ばれてきた神秘の香辛料が、どろりと喉元を通り過ぎ、彼女の五感を優しく刺激する。
ユハはニッキに対して礼を述べることもなく、アンブロシアを舌で味わいながら、
「ネイヴはまだ納屋にいるの?」
「きっと教区長のもとにおりますわ」とニッキは静かに答えた。
「どうしてあたしが女神だなんていうなら、腹のたつことばかり起こるんだろう」
ユハは口をとがらせて桃をまるごとかじった。
「仮令、あなたさまが女神であることがたしかであっても、」ニッキはユハの瞳を鋭く見つめた。その眸は魔女の水晶の如く、全てを透視するかのような輝きを宿していた。「それでもまだ、あなたさまは奇跡を起こしておりません」
その声はひそひそと忍び声であったにもかかわらず、部屋じゅうに響きわたるほど大きく聞こえた気がした。
ユハは「奇跡?」と聞き返した。その問いはこの静かな夜の空気をいっそうのこと不可思議にした。
「神がなぜあがめられるのか。人々がなぜ、神を畏れ、敬うのか……それは神々が、人の領域を超えた大いなる力を持ち、われわれの世界を守るからです。あなたさまが今日したこと――命の泉が突然湧き出でたことに、男たちは苦しみました。あなたさまは悪神ではありません。彼らを救わなければ。彼らを苦しめ、傷つけるのではなく……」
「よくわからない、何を言ってるんだか……」
ユハはうつむいた。生徒たちの目の前で経血を垂れ流したことを思い出し、胸がつまりそうな恥ずかしさを覚えた。
ニッキは穏やかに微笑んで、「貴女はまるで朝と夜で別人のようですのね。今朝は、幼い子供のように一心にお祈りなさって……」
「え?」ユハが怪訝な顔をして、
「なに?お祈り?あたしがそんなことした?」
ニッキは押し黙った。目を見開き、一瞬うろたえた様子だった。そして、再び水晶の眼差しでユハを見つめ、何かを考え込んでいるようだった。
「ねえ、人をじろじろ見ないで。イライラする……」ユハは不機嫌に言った。
「……。明日には薬をご用意します。今日は腹部をあたためて、ゆっくりお休みになってください」
「フェンタニルくらい効くのにしてよ。それに、ほんと……今日は男に触れられて、吐きそうだった。気持ちを落ち着けるなんかがあればいいけど」
「今夜は市場の湯屋を貸し切っているそうです。そちらで少しお休みになっては。教会の尼僧たちにお玉体をお清めに遣わせてもかまいませんわ」
ニッキが提案すると、ユハは首をふって「いらない」と答えた。
ユハは酒酔って、おぼつかない足取りで外へ出ようとした瞬間、自分が裸足であることに気づき、立ち止まった。
あたしは今日ずっと、裸足だったの?
あの重い檻を引きずって、ひどく血がでている。
裸足のまま、血が出ているのも気づかず、丘を歩いていったの……
それはまるで、人の罪を背負った……
朝、あたしはニッキと知らない話を楽しそうにしていた。
ネイヴを納屋に閉じ込めたことを心から謝罪していた。
それに、何よりも、股から血が出たことに驚いた。
それが何なのかわからなかった。
月経とは、毎月訪れる自然な律動であるべきだったのに。
あたしの人間性は崩れ去ったのだろうか? かつてのあたしはどのような存在だったのか? それさえも分からない。あたしは自らを人間と思っていたが、ここに至って、女神であるとか救世主だなどと言われ、あたしが本当に人間だったのかすら疑問に思う。
あたしはなぜこの部屋で目覚めたのか?
機械じかけの女と、人魚のいる部屋で。
ユハは、まるで白昼夢の世界に閉じこめられたような気持ちだった。