わたしの美しき人生論 第6話「鉄の貞操帯」
雨はいつの間にか止み、灰色の雲が空をおおっていた。
「まず、これを」
教区長は、まだ四十にもかからないくらいの壮年の男で、髪を長く伸ばし少しの鬚をたくわえていた。ユハはぼんやりとした頭で、彼は髭を剃ったらきっともっと若く見えるだろうと思った。
教区長に手渡されたものは、ずっしりと重い鉄製の何かだった。ユハはそれがなにか理解した瞬間、教区長に向かって思い切り投げつけた。
「ユハ!」
ネイヴはユハを叱りつけ止めようとしたが、ユハは恐ろしく鋭い目でネイヴを睨みつけた。それは四日前、目覚めの瞬間にネイヴとニッキを見た瞬間に浮かべた、この世のありとあらゆる憎悪と悪意に駆り立てられ支配された目だった。煮えたぎるような憤怒がユハの身体の中で奔騰していた。
「月経のときにナプキンを付けなかったからって、鉄の貞操帯が必要?」
「そうではない、女神ユハ」
教区長は鉄製のそれをぶつけられた頬の下側を少し撫でてから、緊張の面持ちで自分たちを囲んでいる、大勢の兵士や聖職者たちを戒めるように、右手を軽く振った。
「これは月のものを管理できる。血を貯める場所があり、溢れないように細工されてある。千人の侍女を呼びつけて、長い時間職人たちが試行錯誤し、型取りしたものだ」
「つまり中世の、女を罰する鉄製月経カップってことね」
「わたしたちはそういうものを知らない……女神よ。あなたがどこからやってきたのか、どのような文明や、文化のもとで育ったか知るすべがない。だが、我々は千年の間、女神の目覚めを待った。多くの学者や職人が、様々な考察を行ってきた。そして先ほど起こったことで、その一部が正しいかもしれないという結論に至ったのだ」
教区長は厳かな出で立ちだった。ありとあらゆる苦難を、沈黙して耐え抜いてきたであろうことが、一目見るだけで明らかだった。
「……私たちの文化や文明が、女神、あなたにとって不快なものであるかもしれない。しかし、私たちは千年もの間、庇護者を待ち続け、多くの禍にさらされた。あなたの体液の一滴が、数万もの命の種になる」
ユハは、教区長が何を言っているのかが、ようやくわかった。
自分の体液、経血、唾液や、し尿でさえも……この国の人間たちにとって崇拝の対象であり、天災のような力を持つのだということを。
亡羊士官学校で起きた月経事件から、数時間が経っていた。幸いにもけが人や死者はおらず、多くの生徒は三十分ほど昏睡状態にあったが、大半はすでに授業に戻っていた。しかし、ユハの月経の血溜まりのそばにいたエイベル皇子は、まだ意識不明の状態だということが知らされた。
すぐさま兵士が派遣されたが、ユハに近づける者はおらず、大聖堂の年老いた宦官たちが、ユハとネイヴ(が収まった檻)を教区長のいる至聖所へ誘導した。彼らはユハを見ないように黒い布で目を覆っていた。
この男も、ペニスがないのだろうか、とユハは教区長の顔をじっと見た。しかし教区長は、経血について真面目くさって話しているくせに、卑猥さや淫らな感じがせず、まるで天使の霊水について信者たちに説いているようにも見えた。
「……とにかく、私は、貞操帯なんていらないし、こんな場所にも長居しない。経血はトイレに流す。おしっこもうんちも。こんなことまで言わなきゃいけない?」
「ユハ」
ネイヴはこの様子を面白がってさえいるようだった。笑いながら、
「この男は……そう、産まれた瞬間に宗教の虜になったような男でな……ユーモアというものを知らなんだ。ユハが腹立たしく思うのもわかるぞ。ぼくだってこの男の、説法めいた話し方にはうんざりするんじゃ」
「ネイヴ! そもそも……あなたがすべて手配すべきだったんだ」
教区長がはじめて人間らしい動揺した表情を浮かべて、
「なぜ女神が月経の直前だとわかっていて、わざわざ士官学校の中を通らせたのだ?ただ鳩を飛ばすだけで、すぐに馬車を寄越すことだってできたのだ」
「悪いのう。なんせこの凶暴で恐ろしい女神が、ぼくを化け物扱いして納屋に放り込んだのじゃ。霊薬もなく、足を生やすこともできなかった。ニッキは相変わらず無能なアンドロイドだしの。まあ、わざわざぼくが教えにいかなくたって、四日前の〈春の訪れ〉に、士官学校の生徒の坊たちがみな揃って法悦したという噂はお前の耳にも入っておろう。それに十二月に訪れた豊穣の春!すぐに馬車を寄越すことはできなかったのか?」
「……確かに女神が目覚めたとき、なにかしら手を打つべきだった。しかし、畏れ多いという意見が多数だったのだ。我々人間のほうから、神になにをすべきか、今日の午前中に意見をまとめる予定だった」
「それは皇帝だの、その周りにいる鬱陶しい貴族たちや、金儲け以外の能がない商人たちのくだらん意見じゃろう?そんなことをしていたら五年はかかる。エヴェック、おまえの一存で手を打つべきだった」
そしてネイヴは、もう抑えきれないといったように大声をあげて笑った。「貞操帯だってこんな鉄じゃなくダイヤモンドで作ればよかったのじゃよ。下着代わりのダイヤモンドを嫌がる女なんかおらんぞ」
ユハはこの忌々しい大聖堂から早く出ていきたかったが、どこもかしこも鎧をまとった兵士たちがいて、彼らは命がけでもユハの脱走を阻止するだろうことは一目瞭然だった。
「ネイヴ、それ以上くだらないこと言ったら、三枚おろしにしてやる」
「アルコール中毒の人魚の肉か。かなり高価な値段がつきそうじゃ」
ネイブは喉を鳴らしてくっくと笑った。
「女神よ」エヴェック教区長は、うなだれて、今にも倒れ込みそうなほど頭を下げた。
「この鉄製の……月経カップがお気に召さないというなら……なんでも構わない。私たちはあなたを辱めたいわけではないのだ。あなたにとって、我々人間は羽虫のようなもの。あなたの行動ひとつで、大勢の人が死に、また、生まれることもある。私たちは長い間ずっと……あなたを待っていた。しかし、どのように待てばよいかわからなかった。千年前のことなど、誰も記憶にないのだから……」
エヴェック教区長の長い髪が垂れ、床の上でうずまき模様を描いていた。その上をハエが飛んでいた。そしてそのすべてを、ステンドグラスから差し込む光が照らしていた。
ユハは必死に、今朝起きぬけに唱えた祈りの言葉を思い出そうとした。しかしまったく、一句も思い出せないどころか、なぜあんなことを口にしたのか、自分自身さえも怒鳴りつけたいような気持ちになるばかりだった。