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わたしの美しき人生論 第二章第6話 「新しい歴史」
〈白い本〉
ユハは図書館の前で立ち止まった。なんだか奇妙な胸騒ぎがした。自分は何度もここに来ようとして、まるで部屋に拒絶されているかのように一度もたどりつけず、今はじめてようやくここに来られた、というようなおぼろげな感覚が不思議とあった。
ユハが図書室の扉を開けて入ると、すぐ向かって右の入り口付近カウンターから声がかかった。
「失礼。あなたは……女神ユハさまですよね」
ユハは今まで散々、神と呼ばれたり、そのために経血さえ厭われた経験から、思わず不機嫌な声で返事をした。
「……なに。女神は本を読んじゃいけないとかいうわけ?」
「学生証」
無愛想な青年が吐き捨てるように言った。
「は?」
「俺は図書委員のプロヴィスです。こっちは同じく委員のモーラ。(といい、彼は、彼の隣で慌てた様子で席から立ち上がった頬の赤い少年を指さし)ここは士官学校の図書室ですから、無関係な方は入れませんよ」
プロヴィスと名乗った青年は、貴族というよりも疑り深い探偵といったような、あるいは他人を信用しきらない浮浪児の目をしており、反対に、モーラと呼ばれた、彼の隣に立っている背の低いあどけない少年は、蝶よ花よと育てられた子供特有の柔和な顔つきをしていた。
「……あたしは士官学校の敷地内に住んでるんだけど」
「身分証を出してください」
「……」
そこでユハは、自分が免許証のような自分を保証する一切の書類を保有していないことを思い出した。そしてそのことが、己のすべての苦悩の原因であることを、突如まるで電撃のごとく理解した。
パスポートや、保険証や、あるいは国民手帳のようなものによって、多くの人々は自分の身分を他者へ提示し、自分が何者であるのか他人へ示し、自分自身もまた再確認するのである。つまり自分のパスポートの職業欄に〈神〉と印字されていないまでは、ユハはやはり自分が神であるなどと自分を認めることができないのだ、と思った。
「プロヴィス」
ユハが一種の精神的痙攣のため押し黙ってしまったところに、背後から低い声がした。軍服をまとった男が、ユハと、それからプロヴィス、モーラを順番にねめつけた。鼻がつんと高く端正な顔立ちであったが、その目から凶暴で冷酷な猛禽類を想起させ、ユハは思わず身震いした。その男からは紛れもない死の匂いが薫ったのである。
「……デルスウ様!」
プロヴィスも同じく死神を見たような驚懼の声を上げた。デルスウと呼ばれた軍人は、厳格な規律の組織の一員たる冷徹な声で、
「女神のご加護でこの学校が建ち、本来すべての物体は、神がわれわれにお与えになったものだ。そしてその神がこの令嬢であることを、わたしが保証する」
「申し訳ありません」
プロヴィスは深く一礼した。ユハは、仮にもこのプロヴィスという青年も貴族の一人ではないのだろうか、それならばこの軍人は、一介の貴族たちからも一目置かれるような、よほど高位の者なのだろうか、と考えた。
デルスウのほうを見ると、彼は、ユハに向かって淡々と、
「我らが君ユハ。どうぞお好きに見て回ってください」と言った。
「あんたは誰?」
「デルスウ。この図書室の管理人です」
ユハは思わず息を飲んだ。それは彼の肩書きが、厳しい彼らしくない、つまり一般的でとりたてて大仰なものではなかったという驚きではなかった。
彼の軍服の襟元が、わずかに鮮血に染まっていることに気づいたからである。それは、彼がつい先程までに、人を殺したか、あるいは死体のそばにいたことの紛れもない証左だった。
ユハが何かを言いかける前に、プロヴィスとモーラがオーク材のカウンターから出てきて、デルスウから彼女を遠ざけるように手首をつかんで声をかけ。
「何をお探しで、女神様?」
ユハはまだデルスウのほうをちらちらと見ていたが、彼は足早に奥の管理人部屋のほうへ去っていってしまった。
「ねえ、ここの歴史の本はどこにあるの?」
ユハは二人の学生のほうに顔を向けて言った。
「歴史? なら、ここに……」
モーラは生来赤い頬をもっと紅潮させ、緊張でこわばった声で、本棚の一角を指さした。表紙の文字はユハには読めなかった。やはりここは母国ではないどこかなのだ、とユハは改めて不安感を持ち、本の一冊を適当に取った。ユハは本を開くなり驚きのあまりありて、「エッ!」と大きな声を上げた。
「……なにこれ ?真っ白」
「え?」
プロヴィスとモーラが本を覗き込んだ。彼らは説明しがたきといった面持ちで、当惑の表情を浮かべた。ユハは悪夢の中にいる気持ちだった。どの本を取ってみても、印刷ミスのような白紙の分厚い本が並んでいるだけだった。
「あんたたちには何が見えるの?」
「本です」
モーラは困った顔を浮かべた。ユハは悪癖で、不安や恐怖を感じると相手を責め立てるような口ぶりになり、
「本ってなにか文字が書いてあるものじゃないの?あんたたちはどうやって毎日授業を受けてるの」
二人は黙りこくった。何やら事情を知っているらしいが、何から言うべきか互いに探り合っているように見えた。
ユハの癇癪が頂点に達しそうになったころ、唐突に背の高い男がヌッとユハの眼前に現れ、ニヤニヤと笑いながら、
「おや、めずらしい。美しい女人が男臭い我が学びやに、ようこそ」
「ぎゃっ!」
悲鳴をあげたのはユハではなくモーラのほうで、彼は思わず後ろに倒れそうになっていた。
「出たな、タバラン!」
プロヴィスはモーラを驚かしたことに立腹したらしく、流れるような動作で腰元の短刀を長身の男に向けた。
タバランと呼ばれた男は、今まで学舎ですれ違った誰よりも背が高く、そして丁寧に手入れされた非常に艶やかな黒髪を腰まで伸ばした、中性的な美貌の青年だった。枉惑な、淫猥なおもむきが彼から隠しきれず漂ってきた。
「まるで幽霊扱いですね。少しは年上を敬って欲しいものですが。プロヴィスさん」
「貴様がデルスウ様をお呼びしたんだな」
「ええ。私は未来が視えるんです」
タバランからは強い麝香の匂いがして、彼のいかがわしい日常を、嗅覚を通じて容易に感じることができた。
「……女神様……此奴はタバラン。……魔術師だ」
プロヴィスはしぶしぶ剣を鞘に収め、彼をユハに紹介した。
「まあ、今回は魔術など使っておりませんけどねえ。モーラさんが、写字室から飛び出して図書室のほうに向かったので、もしやと思ってついてきただけです。もしかしたら、プロヴィスさんが女神様の情報を持っているのかも、とね。すべて私の予想通りでした。 ハハハ!」
「写字室?モーラ、おまえ、また……」プロヴィスはモーラの方を見ると、モーラはもじもじと恥ずかしそうに下を向いた。プロヴィスは怒り心頭の様子で、「あの双子、いい加減許しておけない」
「まあまあ」タバランは舞台俳優のような大仰な仕草でプロヴィスをなだめると、ユハのほうを向いて、
「そうそう、あなたの召使のニッキさん、最近よくうちにお見えになってきて……効いているようで安心ですよ」
「なに?」
「あの貞操帯、このわたくしの調合した霊薬で洗えば女神の力は封印されます」
「……」ユハは呆気にとられて押し黙った。モーラは「あっ」と合点がいって大きな声を上げた。
「ああ、だからぼくたちには今なにも起こらないんだ!」
「……」
ユハは忌々しげな表情でモーラを睨めつけた。モーラはその女神の恐ろしい顔に思わずのけぞりながら、
「あの……タバランさんは街で薬売りの店を持っていて……魔法薬学の第一人者なんです。……あなた様が今僕たちのそばにいても、前のように失神したりしないのは、タバランさんが薬を作ったからなんですね」
「私はタバラン・デ・セルバンテス。しがない卜者です」
タバランは一輪の薔薇を差し出し、ユハの前で片膝をついて深く一礼した。
「ボクシャ……ってなに?」ユハはまだ不審そうな顔のまま、薔薇を受け取った。
「……ところで、三人揃ってなぜ本を眺めているのです?」
「この本が変だってユハ様が」
「変っていうか、どの本も何も書いてないんだもん」
「ふむ……もしかすると、これが最近我が学び舎で頻発している<歴史の修正>……世界の交わりの際に起こるといわれるものやもしれません」
「二つの世界?」
「はい。つまりあなたは私たちとは違う世界からやってきて……」
そのとき、にわかにピカッと窓の外から大きな稲妻が鳴り、そのあまりの大きさにユハたちは耳を塞いだ。そして大粒のにわか雨が降り出した。
「すごい雨音……」ユハは思わず独り言をこぼした。
「そういえば今日は雨の予報でしたねぇ」タバランも窓の方を見て、そしてユハのほうに目をやった。
タバランの顔が一瞬なにか不思議なものを見つけたような、訝しげな顔をした。「ユハ様……」
「ねえタバラン……偉大な魔術師さん? もう少し教えて」
ユハは人が変わったように突然、とびきりの笑顔を浮かべながら、まるで歌うように楽しげな声で言った。三人は豆鉄砲を食らった鳩のごとく目を丸くした。ユハは三人の様子に構わず続けた。
「あたし占いって大好きなの。女の子はみんなそうでしょ?街一番の卜者に会えるなんて光栄だなぁ! あたしを占ってほしいなあ、ね、いいでしょ?」
「……私の占いは必ず当たる。その自信があります。しかしここへやってきたのは本当に偶然です。なぜなら……あなた様は占えないから」
「占えない?」
「あなたさまを私独自の占星術で読み解くと、不思議な結果が出るのです。あなた様は……」
プロヴィスは驚愕した様子でユハを見て、
「なんだ、突然別人みたいになって」
「……え?ごめんなさい……私なにかあなたたちに失礼なことを言った?それならごめんなさい……あたし、最近記憶が飛んだりして、全然思ってもないような口汚いことを言っちゃうみたいなの。無礼があったなら謝ります」
ユハはプロヴィスたちに頭を下げた。
「……」
モーラは呆気にとられて何も言えなくなっていた。
ユハは頭を上げると、
「タバラン。いえ、オースタス博士って呼んでもいい?あなたにぴったりのあだ名でしょ? ね、もう少し話して、……私を占ったらどうなったのか」
<オースタス博士>は、深く息を吸うと、意を決したように言った。
「あなたは……亡霊だ」
<彼らが初めて知る世界の歴史>
「と、いうことがあったのですよ」
円卓会議のメンバーたちは、タバランから図書室での話を聞き終えると、口々になにか言い合い、教室は話し声でさざめいた。
「それで……ユハ様は?」
皇子はメンバーたちに静まるよう諌めながら、タバランにたずねた。
「おや、驚かないのですか? 皇子」
「占いの結果の事か? 女神様が、すでに亡くなっているって?……じゃあ、あのお方は何者なんだ?……」
「わたくしにもわかりません。色々と女神から聞き出したかったのですが、ちょっと一人になりたいだとか言って去ってしまいましたので。プロヴィスさんも考え事をするとかで、会議には欠席するそうです」
「あのさあ、そういうときは引っ張ってでも連れてきなよ。あんな下級貴族」
キリーヌ・リリエンタールはタバランを足蹴りしようとしたが、タバランは闘牛士のごとし身のこなしで躱した。
「別に会議にまで呼ぶ必要はないでしょう。それに、あなたたちに何もかも教えたら私が損でしょう? 私が女神に見初められるかもしれないのに」
「はあ?さっき全部話すって言っただろ! だいたい、お前みたい不気味なやつ、選ばれるわけが……」
レームがそう言いかけると、突然、タバランの背後で気配を消していたツグミが、日本刀をレームの顔面めがけて振り落とそうとした。
「ツグミ。下がりなさい」
ツグミは<オースタス博士>に咎められ、無表情のまま刀を腰に落とし差しした。
「……」双子も思わずツグミの殺気に黙ってしまった。
しん、と静まり返った教室の中で、皇子はなんとか場をもたせるために、朗らかな声で言った。
「まあまあ。とにかく、女神はお帰りになったんだね」
「ああ、いや。そういえば、図書室を出る前に、デルスウ様のお部屋に行かれて、何やら話していたようですが」
「……ふうん。もうそこへ行くのだな」
タバランの言葉を聞いたネイヴが意味深なことを口走った。
「ネイヴ、何を知ってる?」
「いいや、別になにも」ネイヴの言葉を誰も信じてはいなかったが、この老獪な人魚が簡単に何もかも白状するような性分ではないことはみんなわかっていたので、それ以上誰も追求しなかった。
タバランは図書室から持ってきたらしい一冊の本をマントの中から取り出すと、みんなの前で広げてみせた。
「本を少し持っていたのですが、まあ見てください」
「なに?」
それは、青年たちが初めて目にする、<新しい歴史>……
今から5千年前、チグリス・ユーフラテス川と……