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わたしの美しき人生論 第4話「気ままな女神」
翌日、明け方から小雨が降っていた。街路樹のにおいをいっぱいにふくんだ春のおだやかな雨だった。
女王ユハが目覚める前に積もっていた雪が溶けだし、街路は一面濡れていた。
ニッキがいつものように朝食を運びに部屋を開けると、ユハは顔全体がうっすらすもも色に色づき、昨日よりずっと健康そうだった。そしてうっとりとベッド脇の小窓の外を眺めながら、誰に言うでもなくひとり祈っていた。天主の御母聖マリア、罪人なる我等のために、今も臨終のときも祈り給え。
ニッキはまるで母が娘に叱るように、「ユハさま、そのようなことをお云いになるといけませんわ」
と口をとがめて言った。ユハはふりかえって、「どうして?」といぶかしげに首をかしげた。ニッキはこたえた。
「あなたさまが神であり、この世のすべての母なのですから、あなたさまが誰かのために祈るということはあってはならないのです。この世のみなが、あなたさまへお祈りするのであって、あなたさまが誰かに救いを求めるということではないのですわ」
「本当に変なの」ユハは肩を落とすと、「私が神だなんて、絶対におかしいもの。私は何もできないよ。普通の女の子なのに」
ニッキは衣装櫃の隙間からミルトの花を目ざとく見つけると、目に見えて困惑し、しかしつとめて冷静な声でユハに詰問した。
「この花はどうしましたの」
「……」
ユハは観念して、
「昨日の午睡のあとに、なにかが窓にぶつかった音がして、窓を開けてみたら箒に乗った男の子が飛んでいて。そして花を渡してくれたの。彼はエイベルって言って、やっぱりあたしのことを女神様って呼んで、お会いできて嬉しいって」
「エイベル皇子が?」
「そう、皇子って言った。だからここは帝国なの?ってたずねたら、不思議な顔をしていたの。それで、この世界は我が帝国のみですと言って……」
「どうお感じになりましたか」
ニッキはマヌカンのようにぴったりと両足をそろえ、背筋を伸ばしてそう問うた。ユハは何を訊ねられているのかよくわからなかった。
「どう感じたか?……皇子様という感じではなかったよ。普通の男の子のようだった。でもこの言葉は変だね、だって私は今まで王子様に会ったことがないから。それに彼は魔法使いのようだった、だって空を飛んでいて……すごくびっくりしたし、それに」
「彼とまぐわってみたいと思いましたか?」
ニッキはユハのおしゃべりなどなんの興味もない様子で、顔色ひとつ変えずそう訊ねた。ただ、それだけにしか関心がないとでも言いたげだった。
ユハは余計に混乱して、
「何を言っているの。ただ挨拶しただけなのに……私は尼さんでもないし……」
「じゃ、皇子とまぐわいたいとか、彼との子がほしいとか、そうお思いにはならなかったのですね」 ニッキは語気を強め、まるで試験の問答をするみたいに、ユハにそれを確かめた。ユハはすっかり怯えて、小さくこくこくと頷いた。ニッキはそれをみとめると、会釈し、そのまま部屋を出ていった。窓際の木にとまっていた数羽の嘆鳩が飛んでいった。
***
ネイヴは雪どけ水と雨の入り混じった泥水が納屋の外の桶にぽちゃ、ぽちゃと溜まっていく音を静かに聞いていた。
ネイヴは女神の命によって、千年間居座っていた使用人部屋を追い出され、暗い納屋の奥に酒樽を置き、そこに水を張って浸かっていた。
酒が飲みたいのう。
ネイヴは乾いた喉から小さく音を出した。
すると、ギイと納屋の扉が開いた。
ユハが立っていた。
昨日、恐ろしい悪魔のような顔で自分をバケモノと呼び、部屋から蹴り出すと、金切り声で、「こんなものはどこかへやって!」とニッキに言いつけたユハは、まるで昨日とは別人のように穏やかで、無邪気な子供のような大きな黒い瞳をくりくりさせて、ネイヴを見るなり、
「ずっと起きていたの?雨が降ってすこし寒いね、今朝は」
と言いながらネイヴに近づき、しゃがみこんでネイヴの顔を覗き込んだ。
ユハはネイヴが思っていたよりも背が高く、外見だけで判断すれば、発育の良い一六、七歳くらいの少女だった。それだというのに、なぜか今朝のユハは、まるで幼年期の子供のような天真爛漫さがあった。
ユハは自分がやけどをしないように、おそるおそる、たまに片目をぱちぱちと瞬きさせながら、コーヒーカップをネイヴに差し出した。
「ニッキが、朝にはこれがいいって言って淹れてくれた。すごく熱いから舌をやけどしないようにね」
「ああ、ありがとう」 ネイヴはあっけにとられながらもコーヒーを受け取ると、口をつけて飲もうとしたが、ユハが「あっ」とそれを静止した。そしていたずらっぽく笑いながら、背中に隠していたラム酒の瓶を見せて、
「ラム入りじゃなきゃだめでしょ? ニッキに秘密で持ってきたの。これできっと、がつんと目が覚めるよね?」
ネイヴは、ユハの変わりように困惑しつつも、「ニッキはけっして怒ったりせんよ……ぼくがどれだけ飲もうともな」
「そう、ニッキはロボットだもん……お酒の飲みすぎであなたが病気になるとか、そんな心配事はプログラミングされてないんだよ」
ネイヴは思わず笑った。
「あいつが人間だったとしても、そんな心配は絶対にせんよ。まあ、とにかく、ありがとう。昨日おまえに部屋を放り出されてから飲まず食わずだったから」
「本当にごめんね。私、あまりよく覚えてないの。でもすごく興奮してて、いらいらしてた。なんでだろう? たくさん寝て、たくさん食べていたら、普通いらいらなんてしないよね。なのに、あの部屋で目覚めてから、今朝までずっと、ひどくいらいらして、自閉的だったの。たぶんすごくびっくりしたんだ。だってあなたって、その……人魚でしょ?うーん、人魚って、今まで見たことがなかったし」
ユハは目を細め、ネイヴの身体を舐め回すように見た。そしてポケットから小さな銀製の櫛を取り出すと、ネイヴの長い髪を優しく梳かした。
「今日は偉い教区長様に会わなきゃいけないって、ニッキに言われたんだ。この世界についてや、私自身について、教えてもらえるからって。でも一人で行くには、ちょっと迷うだろうから、ネイヴと一緒に行きなさいって。ネイヴはこの町のことをなんでも知ってるからって」
「そうじゃのう。もうずっと長い間、ずっとここにいるもんだからな。あの神父が産まれたときに、ぼくが産院で名前をつけてやったんじゃ」
「でもネイヴ」ユハは唇を少し噛むと、ななめ下を見て数回まばたきをした。
「すごく若く見える……少年のような……いや、少女……」
「ぼくは男でも女でもない。人魚は中性じゃ。ずっとそれを気にしていたのか?」
ユハは頬をさっと紅潮させた。「だって……男の人は……」
もごもごとなにか言いたげなユハに、ネイヴは両手を差し出すと、「そんなことを心配していたのか。とにかくわかったかね、ぼくは男とか女とかの範疇にいない。だって見てみなさい、ぼくには足もないし、陰茎もない。さあ、わざわざコーヒーをありがとう。もう十分だ。大聖堂に行こう」
ユハは嬉しそうに「うん」と大きく頷いた。
「だけど、あなたをどうやって大聖堂まで連れていけばいいの?あなたが芋虫みたいに這いつくばっている横を歩くなんて嫌だよ」
「心配ない。納屋の外に檻があっただろう。ほら、猛獣とかを入れておくような、鉄製のやつじゃ。あそこにぼくを放り込んでくれ。鎖がついているから、引っ張っていってほしい。まあ、たしかに結構重いし、痩せた娘っ子のおまえにはちょっと難儀かもしれないけどね」「いいえ、大丈夫、私なんでもやれる気がするの、今朝は。すごく元気なの」
ユハは声をあげて笑った。すこし過剰なまでに朗らかだった。ニッキに止められるまで、ネイヴの尾びれを鋏で切り落とそうとした、狂気的な娘の影はもうどこにもなかった。