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わたしの美しき人生論 第5話「ベトザタの血」
ユハはネイヴを入れた四角い鉄格子の檻の鎖を引っ張りながら、ネイヴの指示通りに道を歩いていった。町というより広い城の庭園が延々と広がっているような場所で、城下町からは門を隔てた私有地だった。
「ねえ、ネイヴ、ここは学校?」
「うん、まあ、そうじゃな。学び舎でもあるし、優秀な軍人を育てる場所でもある」
「ああ、なんだかそんなことをあの人も言っていた……」
「あの人?」
「栗毛の男の子で、この国の王子様だって言ってた。魔法の箒に乗って、窓際までやってきて挨拶してきたの。ここに住んでいて、卒業したら皇帝になるって」
「まさかエイベルに会ったのか?」
「うん」
ユハはたいしたことないというような顔だった。
「だから私、そんなことはやめたほうがいいって言った」
「エイベルが王になるのをやめさせたいって?」
「だって今どき、王様がいるなんて……しかもその人が政をするなんて…‥民主主義に反するでしょ。政治は貴族のためのものじゃないのに、この国には貴族がいるって」
「貴族制度に異を唱えたんだな、よりによってエイベル皇子に」
ネイヴはたまらないといったふうに大笑いした。
「私、間違ってる?」
「さあ。何が正しくて何が間違っているかということは、簡単に判断できるものじゃない。でも貴族嫌いだとしたら、おまえがここに慣れるのは、骨が折れることじゃろうな。ここは士官学校で、国中の貴族や豪商の子息たちのための学校だ。国教である亡羊教の母体である大聖堂に隣接するように建てられておる」
「宗教国家で、貴族制度があって、ニッキのような奴隷がいる。本当にひどい場所だね」
「いいや、ニッキは別に奴隷じゃない。実際に毎日食事を作るために市場に通っておるじゃろう。本当は何処にでも行けるのじゃ」
ユハは何度も鎖を手放しては一休みしている。ネイヴは痩身だが、尾ひれは長く、かなり重たかった。
「でもニッキは、自分は奴隷だから部屋から出られないって言ってた」
「あいつは自分で自分を苦しめているんだ」
「どうしてそんなことをするんだろう」
「ううん」ネイヴは少し考えてから、
「かわいそうな女なんだ、ニッキは」
士官学校の敷地内を歩いていると、警邏を幾度となく見かける。しかし警邏たちは、最初こちらを警戒していても、ユハの顔を見るなり、まるで幽霊でも見たというふうに逃げていくのだった。
小雨はずっと降り続いていた。ユハは両手で鎖をにぎっているせいで、傘を持つことができない。それに、かなり長い間歩いたせいで汗をかいていて、顔中が濡れていた。
ユハは大階段に腰かけて、大きく息を吐いた。
「ああ、疲れた。大聖堂まであとどれくらい?」
「ここから学校の裏手を行った先だ。学校の裏になだらかな丘があって、そこをずっと歩くのじゃ」
ネイヴは大階段の上った先を指さした。
「つまりこの中を突っ切れば、大聖堂に着くの?」
「まあ、そのほうが近いが……それよりユハ、今日大聖堂に行くことはちゃんと伝えているのか?」
「え?伝えるって?」
ユハは不思議そうな顔をした。まるでなんのことだかわからないという顔だった。
ネイヴは呆れた顔で、
「まさか修道士たちや雑役夫にも、なにも言わずにきたのか?」
「だってニッキからそんなこと、なにも聞いてなかったから……」
ユハは雨や汗で濡れた顔をしきりに両手で拭きながら言った。ネイヴはため息をついた。
「ぼくが伝えていればよかったかもしれん、まあ、部屋から追い出されて納屋で寝起きすることを先に知っていればの話だが……」
「本当にごめんなさい!」
ユハは頭を下げた。
「やめなさい、ぼくに頭を下げるな。いや……ユハ、これから誰にも頭を下げちゃいかんぞ。おまえは神だ。神がいくら過ちを犯そうが、それは誰にも審判されない。今回のことも……ただ無知だったというだけ。大したことじゃない。ただ、教会の誰かがユハの来訪を知っていれば、協会から馬車のひとつでも寄越してきただろうというだけじゃ」
「頭を下げちゃいけないって……」
ユハは何かを言おうとしたが、ネイヴは遮った。
「ぼくの言うことは聞いておくれ。おまえがこれからここで暮らしていくために、誰かがいろいろと些末なことまで教えなければいけない。不幸にもニッキは多くのことを知らないが、ぼくは多くを知っておる。だから、わかったか」
ネイヴが急に真面目な顔をして言った。ユハは黙って小さく何度も頷いた。
「大聖堂の権力は、皇帝と大きな違いはない。謁見の間に赴くにはふつう、数日前から連絡して、許可がおりてからでなければならない。まあ、それはただの凡人の場合だ。おまえなら教区長も走って来るだろう。女神をないがしろに追い返すなんて真似はあいつとてしないじゃろう」
「ねえ、ネイヴ」ユハはぶるぶると犬のように大きく頭を振った。
「この学校の中を抜けていこう。わざわざ雨の中をこれ以上歩いていくことないでしょ」
「それは……」
ネイヴはしばらく黙考していた。ユハはしびれを切らして、
「私のことを女神だの女王様だのいうくせに、どうして屋根のある建物に入ることはそんなにたくさん考え込まなきゃいけないの?」
「今は何時だ、ユハ?」
「えっと、納屋に向かうために部屋を出たのが八時前……だから今は八時半か、九時前くらいだと思うけど」
「うーん」
ネイヴはまた考えこみ、大階段の下から城のような豪奢な建物を見上げた。
「仕方ない。おまえが風邪を引いたらニッキは倒れてしまうだろうしな。ただ、ユハ、とにかくあまりうろちょろしないようにの。わかるじゃろう?おまえはここの生徒じゃないし、部外者が学び舎を勝手に歩くっていうのは、よくないことじゃ。わかるかの?」
「たしかにそうだね」
ユハはそう答えると、ふんと力を入れて鎖を両手で持ち直した。そして、檻をガコガコといわせながら、一段一段、階段を上がっていった。入口の両脇には兵士が立っていたが、恐懼とも好奇ともとれるような目でこちらを眺めているだけだった。
***
白い大理石の建物の中に入ってみると、まず広々とした中庭があり、薔薇が美しく咲いていた。大きな池があった。
「ベトザタのよう」
ユハは感心してため息をついた。ネイヴは驚いた顔を浮かべた。
「おまえは行ったことがあるのか?」
「いいえ。ただそう思ったの。いえ、ただ、ベトザタの池の絵画を知っているというだけ……」
「それをどこかで見たのか?」
「いいえ、見たこともないかもしれない……」
二人は黙り込んだ。たまに警邏が巡回しているほかに、人の気配はなく、しんと静まり返っていて、鳥の鳴き声が大きく聞こえるほどだった。
「この廊下を渡って、早く行くんじゃ」
ネイヴは焦っているように見えた。
「うん」
ユハはそう答えたが、興味津々にあちこちの部屋を覗き込んでいた。ネイヴはユハをまた急かした。
「何を見てる? 誰かを探してるのか?」
「エイベル皇子」
「なぜ?」
「私、ちょっと失礼だった気がする」
「ええ?」
「だって」ユハはネイヴの檻をズリズリと引きずり、汗をかきかき、考え込んだような顔をした。
「私は民主主義がすばらしいって思う。けど、思想を押し付けるのは、初対面でするべきじゃなかったって……」
「そんなことはないぞ。ここは女神の国だ。おまえがすべて正しい。だから、皇子が間違っている」
「貴族制度の欠点を指摘するとしても、まず挨拶からすべきで……」
ユハは黙りこくった。
「どうした?」
「すごく眠い……それにお腹が痛い。でも、こんなところで寝たりできない……」
「おい、ユハ。せめて大聖堂まで行け。ここはだめだ。授業が終われば生徒が一斉に部屋から出てくる」
「皇子を待たなきゃ……」
「おまえはなぜそんないい子になった?昨日までの鬼のような女はどこに行ったんじゃ。ぼくを寒々しい納屋に押し込んだユハは……」
「わかんない、私、なんであんなことを……とにかく少し休みたい。ネイヴに足があったらなあ、ほんとうに疲れちゃった」
ユハは渡り廊下の真ん中に座り込んでしまった。そしてくんくんと鼻を鳴らすと、「いい匂い、薔薇がすごく綺麗……きっと庭師がいるんだ。本当に貴族のお城みたい……」
ユハは誰にいうでもなくぼんやりと独り言をつぶやき、それからお腹を抑えだした。
「痛い!」
鈍い痛みに混じって、ジリっと電気が流れるようなするどい痛みが走る。
なんだろう、この痛みは?
突然お腹が痛くなるなんて、変だなあ……。
「きみ」
ユハの背後から鈴のなるような美しい声が聞こえた。柔和で、まるで茂みに隠れた小動物を呼び出すように優しい声。ユハはその声に聞き覚えがあった。
「皇子……エイベル皇子」
「女神様。どうしてこんなところに……」
二人が顔を合わせると、ざわざわと人が集まってきてにわかに騒々しくなってきた。どこの教室からも生徒たちが顔を出して、ユハと皇子を見守っている。最初からユハはどこの部屋からも生徒全員に見張られていて、彼らはとうとう黙っていられなくなったようだった。
ズキ、ズキ、ズキ……。
「痛い!」
ユハが大きな悲鳴をあげた。
その刹那、まるで、大きな爆発が起きたかのように、大勢の少年の悲鳴が、ありとあらゆる場所から聞こえだした。
ユハはうずくまって、目がかすれていくなかで、ネイヴが必死に何かを叫んでいるのを見ていた。ネイヴの声は生徒たちの悲鳴と怒号でかき消された。ユハは何が起きたのだかわからなかった。突如、爆弾が落ちてきたのかと思ったほどだった。どこからも助けを求める生徒たちの絶叫が前後左右のどこからも聞こえてきて、ぐわんぐわんとめまいがした。目が開けられないほどの混乱の中、かすれていく視界の中で、皇子が仰向けに倒れているのが見えた。
何が起きたのだろう?
これは何?
わたしは何をしたの?
ユハはふと、自分の両足の間から、血がしたたり床に広がっているのに気づいた。
なんだろう、これは?なぜ血が流れているの?
なぜ私の股から血が流れているの?
これは一体何?
悲鳴はやんだ。誰もが床に倒れ込み、まるで爆撃のあと、死体の積み重なった戦場のようだった。そして、ユハのふるえる悲鳴がこだました。