猫次郎
「だから何べんも言ってるように、猫の野郎が――」
「猫がなんです! こっちは娘と二人往来歩いていて、いきなり生魚を頭ッから被せられたんだよ! これが猫のしたことかい? 猫が天秤棒かついで魚売ってたわけじゃないだろ。あんたがやったことじゃないか、え、魚屋」
「そりゃまぁ――で、でも、あっしだっていきなり軒先から猫に飛びかかられて、ウワッてんではずみで……けっして悪気があったわけじゃあ――」
「悪気がなけりゃ済むと思っているのかい。冗談じゃない、今日は娘の大事な見合いの日なんだよ。この日のために着物だって新しいのを拵えて――これも先々のことと、うんと張り込んだんだから安かないよ。棒手振りの魚屋の稼ぎじゃあ一年分で足りるかどうか――さあ、すぐに弁償しておくれ」
「い、一年分て……せめてふた月みつきなら、魚のアラでも喰ってなんとか凌げましょうが、一年となるとそりゃ無茶だ」
「無茶だろうがなんだろうが、いますぐ払ってもらうよ。娘にいつまでもこんな魚臭い着物を着せとくわけにはいかないんだ。せっかく暦でいい日を選んだっていうのに――見合いがうまく行かなかったらどうしてくれるんだい! それともなにかい、ひょっとして家の娘に恨みでもあって、見合いの邪魔をしようとでも――」
「お父さま、もう――」
「お玉、お前は黙ってなさい」
「でも魚屋さんだってわざとしたわけではないのですし……それにあの猫が――」
「猫なんぞいいんだよ。猫が弁償できるわけじゃなし、こいつが払わないで誰が払うんだい」
「あっしだっていっぺんには払えませんよ。せめて猫と折半して、あたしの稼ぎと猫の稼ぎを半分つ――」
「猫に稼ぎがあるもんかい。お前さんが全部、弁償するんだ」
「あっしだってロクな稼ぎがあるじゃなし、猫とトントン――いや、イワシの二、三匹は野郎に上前はねられることもしょっちゅうで……ひょっとすると猫の方が割がいい」
「つまらないことを言ってないで、さあ、払うのかい、どうなんだい!」
「払うったって……ですから半分は猫の野郎が――」
「また猫かい、魚屋のくせにずいぶん猫に頼るじゃないか。猫はもういいんだよ」
「片っぽがよくってもう片っぽはいけねえてのはどうも……あっしがダメなら猫もダメとか、猫はいいよ、魚屋さんもいいよ――とか、なんかこうスッパリと切りのいい――」
「猫と魚屋と同じ扱いをしろってのかい。仇同士一緒ってのも妙な話だが、そうまでいうならニャアとでも鳴いてみな」
「へ――?」
「猫と同じってなら、ニャアと鳴けるんだろ」
「いや、そういうんじゃなくて――」
「鳴けないのかい。じゃあ猫じゃないね。だったら弁償してもらうよ」
「いや、あの……」
「お父さま、もうおよしになって……こんなに人が集まって――」
「結構じゃないか。御見物の方々に魚屋がニャアと鳴くところをご覧いただこう。さあ、魚屋! お前さん人かい? 猫かい? どっちなんだい!」
「で、ですからね……」
「ええい、売り物の魚と同じで生きの悪い奴だ。どうなんだい、はっきりしてもらおうか!」
「ニ……ニャア……」
「えっ? なんだって?」
「ヘヘ……ニャア――って……」
「照れ笑いする猫があるかい。さっさと諦めて、全部わたしが悪うございましたと――そうそう、両手を地べたにつけて、頭も下げて――ほれ、頭を下げるんだよ。なにをぐずぐずしてるんだ」
「ニ……ニャアアアーオ!」
「な、なんだい、いきなり大きな声を出して――」
「フギャァー! ニャオニャオ、ニャーア!」
「こ、こら、そんなこって誤魔化されや――おい、こら、どこへ――泥棒猫……じゃない、魚屋ッ! ああ……エライもんだ、本当に四つん這いで駆けていった……なに、この辺りの者に違いはないんだ。探せばすぐに――さあ、お玉、とんだ目にあったな。大事な見合いの日だってのに……」
「わたしは別に……お父様が無理にお勧めになったことですし――」
「まだそんなことを言っているのかい。さあさあ、早く帰って着替えてな、機嫌直して……な、お玉」
「ああ、情けねえ。往来でなんだかんだと文句をつけられ、恥ずかしいやら悔しいやらで頭ン中がカーッとなって、思わずあんなこと言っちまったが……魚屋が猫の真似してニャアと鳴くなんぞ、商売仇の提灯持ちみてえでみっともねえたらありゃしねえ。こんなんじゃ明日っから顔上げて商売もできねえし……辞めちまおうかな、魚屋……いっそのこと本当に猫ンなって……いままで連中にはイワシだアジだと結構ほどこしてやってんだ、今日からお仲間入りだよってえば、そう悪い扱いもされねえだろ……いやいや待てよ、おれが魚屋やってるからあいらにも利があるんで、魚屋やめたんならこんな野郎に用はないってんで、爪でガリガリっと――って……おいおい、戻って来ーい、俺。放っとくと危ねえとこ行っちまうぞォ。ああ、家ン中で一人で考えてたってロクなこたぁねえ。早く寝ちまおう……うん? 誰か戸を叩いてるね……はい、どなた?」
「魚屋の彦次郎さんのお宅はこちらでございましょうか?」
「ええ、彦次郎はあっしですけど――」
「あの……昼間、ご迷惑をおかけした――猫でございます」
「猫? あっ、あんた、昼間の娘さん――ニャーァオ」
「夜分に突然お邪魔いたしまして――」
「フー!」
「大丈夫です。父は居りません。わたくし一人でまいりました」
「ニャンの……なんの御用で?」
「匿っていただくわけには参りませんでしょうか」
「匿う? 誰かおかしな野郎にでも追っかけられてるんで」
「わたくし、今日、見合いがあったのです」
「見合いって……ああ、そんなこと言ってましたっけ。そのために拵えたせっかくの着物を……あの――ひょっとしてあっしの所為で見合いが駄目ンなったとか……だったらえれェこった、どうやってお詫びしていいもんか――本当に申し訳のねえことを」
「そのことはいいのです。見合いといっても父の商いの都合で決められたもの。わたくしは初めから気が進みませんでした。でも、いくら言っても父は聞き入れてくれず、もうこれ以上、口でわかってもらえぬならば、いっそのこと父と刺し違えてもと――」
「おいおいおい――」
「それが今日、あなた様とお会いして、目の前に光の差すような思いをいたしました。言ってわからぬ相手に理を説くよりも、こちらも最初から聞いてわからぬ言葉を返し、互いの言葉の通じぬ不自由さ、虚しさを、身を以て相手に知らしめようという――わたくし思わず、ああ、これだと……」
「ど、どれで」
「見合いの席で大きな鯛が目の前に置かれましたので、わたくしも早速あなた様を見習い、それにかぶりついてニャアと一声鳴きました」
「無茶なことを――」
「父にわかってもらうためです」
「そのほうがなおさらややこしいんじゃ……」
「わたくし、見合いの席から逃げて来て……でも、もう家には帰れませんし、他に行くあてもなくて……それなら同じ猫同士、わたくしを置いては下さらないかとこうしてあなた様のお宅を探して参ったのでございます。どうぞ哀れな捨て猫と思し召して、置いてやって下さいませ――ニャオ」
「ニャオって、あなた……第一、同じ猫同士にしたってこっちは雄だ。そう簡単にどうぞってわけには――」
「子供の頃、家でも雄の猫を飼っておりましたが、わたくしはひとつ布団で寝ておりました。一緒に暮らすのには慣れております」
「どうも話が合わないね。いいですかい、こっちは猫じゃなくて生身の――」
「あなた様は人間なのですか?」
「そりゃもちろん――」
「人間ならば、今すぐ着物の弁償を」
「なんだい、親父さんと同じようなこと言うな。わかりましたよ、あっしも猫でいいですよ。もう遅いから今晩一晩は泊めて差し上げますけど、明日ンなりゃどっかよそへ行ってもらいますよ」
「お玉、お玉は居るのか!」
「ファーア……誰だ、こんな朝っぱらから。こっちはおちおち寝てらんなくて、まだ眠くって……」
「お玉、早く出てきなさい。ここに居るのはわかっているんだ。これお玉、早く戸を開けないか、玉や、玉――タッマヤァ――!」
「川開きだね、どうも――さあ、困った、あんたはそこの押し入れにでも入って――」
「いいえ、わたくしは猫ですから逃げも隠れも致しません。あなた様もどうぞそのおつもりで」
「おつもりったって、猫の真似してどうなるもんでも――」
「男親にとって、嫁入り前の娘が男の家で一晩過ごしたのと、猫と一緒にいたというのとでは、どちらが気を揉みましょう」
「そ、そりゃ、男ンとこに泊まったとなりゃあ――」
「でしたらどうか猫のままで」
「おい、早く開けないか! おい――」
「エー、ニャア」
「やっと顔を出したと思ったら二ャアってお前……家の大事な娘をどうしたんだ」
「ニャニャニャア」
「ふざけてないで早く娘を――おお、そこに居たか、お玉。心配したよ、急に飛びだして一晩も家をあけて……さあさ、一緒に帰ろう、な、お玉……どうした、なにを黙っているんだい。お父っつあん、あれから大変だったんだ。先様にお詫び申し上げて、使わなくていい金を使って……それでもなんとか、もう一度会って頂けるようお願いして来たんだから……心配しないで家に帰っといで。な、お玉――なんとか言っておくれ」
「ニャァーオ!」
「お、お玉……どうしたんだお前、また猫の真似なんぞして……そうか、こいつにそそのかされたんだな――おい魚屋、大事な娘を猫にして、どうしようってつもりだ!」
「ニ、ニャニャ……」
「ええい、話にならん。さあ、お玉。一緒に帰るんだ」
「フーッ!」
「フーッってお前……お父っつあんがどれほど心配しているか……ほれ、手を出して――アタタタ、引っ掻いたな――誰に似たのか強情な娘だ……もういい! お前が帰って来たいと言ってもお父っつあん、家に入れないからな! だから――今のうちに一緒に帰ろう」
「ニャッ!」
「わかった、お父っつあん、もう怒った。金輪際お前は家には入れん! 猫でいたけりゃずっとそうしているがいい! あたしゃ猫を娘に持った覚えはないんだからね。――おい、魚屋ッ!」
「ニ、ニャア……」
「お前も猫なんだな! ああ、結構だ。こうなりゃ一年分の稼ぎなんぞもういらん。その代わり今日から三百六十五日、猫で通してもらおうか。もしも途中で人間らしい振りでも見せたらその時は――どうなるか覚悟してもらうよッ!」
「ニャーオー――ニャーオー――」
「ちょいと猫さん、今日はなにがいいんだい」
「ニャーシ、ニャー」
「あら本当、青光りしていい鰯だねェ。そんじゃ六匹おくれ」
「家は四匹ちょうだい」
「ニャゴニャゴ」
「明日もまた、いいの待ってるからねェ」
「あ、あの……今の魚屋さんは? 四つん這いで荷車引っ張って行きましたけど――」
「ああ、あんた最近越して来たばっかりだから知らないんだ。猫次郎――いえ、彦次郎さんッてねェ、こないだまで人間だったんだけど、今は猫なのよ」
「どうしてまた猫なんかに――」
「祟りだろ。商売物の魚を盗んだ猫を追ッかけてって、鰺切り包丁かなんかでブスリとやってさ――そんで夜中に枕元に殺された猫が立って、みどりの黒髪おどろに乱し、恨みはらさでおくべきかァ――」
「違うわよ、頑固屋とケンカしたんだってよ」
「頑固屋……ああ、金兵衛さんね――ハンコ屋の」
「あすこの娘を猫さんが家に引っ張りこんだとかで……」
「へェ、人は見かけによらないねェ。おとなしくって真面目そうに見えたけど、猫被ってたのかねェ……あ、それで猫?」
「それでさ、なんでも金兵衛さんの娘も猫になったって」
「あら、お似合い」
「猫同士、うまくやってるらしいわよ」
「あ、あの、それでどうして猫に……?」
「いいのよォ、魚屋なんだから。売ってる魚が安くておいしけりゃ人でも猫でも構やしないよォ」
「おいお前、世間じゃ家のことをなんて噂してるか知ってるか」
「あそこは判子屋じゃなくて頑固屋で、金兵衛のおでこには石頭って彫ってあって紙をあてると字が写るって……」
「そんなことじゃない! お玉のことだ! 判子屋の娘は仲人もたてず、魚屋とくっつきあいで一緒になったって世間じゃ噂してるんだぞ!」
「いいじゃありませんか、本当のことなんですから」
「お玉は家の大事な一人娘だぞ、誰があんな奴のところへ!」
「勝手にしろとお玉におっしゃったのはあなたでしょうが」
「たとえそう言ったってだ、あとで間に入ってなんとかするのが母親ってものだろうが。それをお前は――しょっちゅうお玉のところへ行っちゃあ、着物だなんだと届けて甘やかして――」
「しかたがないでしょう。あの子は嫁入り道具どころか、なんにも持たないで行っちゃったんですから。いろいろ入り用なものも――」
「よ、よ、嫁入り道具とはなんだ! お前がそんなだから悪い噂をたてられて――この上、お玉にもし間違いでもあったら――」
「いいんですよ、一度や二度間違ったって死ぬわけじゃなし。若いうちに間違えないでいつ間違えるんです。あなたはハンコ屋だから、四角く納まって十回押そうが百回押そうが、みんな同じでなくちゃお嫌なんでしょうけど、人間はそうはいかないんです。
大体、今度のことだってあなたがお玉に無理やり見合いなんかさせようとしたからいけないんですよ。自分の商いの都合ばかり考えて、お玉の気持ちなんかちっとも――
いいえ、あなたはいつも勝手に独り決めするんです。あたしと一緒になった時だってそう。なかなか子供が出来ないもんだから勝手に諦めて、近所から猫を貰ってきてタマって名前をつけて人間の子供のように可愛がって――それがいざ子供が産まれたら今度は子供を猫ッ可愛がりして名前もお玉。可哀相に猫のタマの方は構ってもらえないもンだから家出しちゃったじゃありませんか。あれから十何年たって、また同じように家出されて――あなたが勝手に玉なんて名前をつけるから、あの娘も猫みたいになったんです。これに懲りて、あなたも少しはお玉の好きにさせてあげなさいな」
「な、な、な――なんだ、その口の利き方は! 自分ばっかりわかったような顔をして――あたしだってお玉は可愛いんだ。だからちゃんとした婿を選んで、この家の身代そっくりお玉にと――それをお前は、お玉も身代もそっくりあの魚屋にくれてやれというのか! ひょ、ひょってしてお前、ちょいちょいあいつンとこ行くと思ったが……もしや魚屋と出来てンじゃあるまいな! それで一緒ンなってあたしを亡きものにしてこの家を乗っ取ろうと――ええ、どうなんだ! まさかそんな大それたことを企んでんじゃ……おい、こら――黙ってないでなんとかいいなさい! お前はあたしを――」
「ニャーアァー!」
「ああ、腹の立つ……どいつもこいつも猫ンなりゃいいと思って――それもこれもみんなあの魚屋のせいだよ。あいつがつまらない真似なんぞするから――ああ、居たな、魚屋――なにしてるんだ……井戸端で足洗ってるのか、四つん這いで……おお、お玉も一緒か……こらこら、そんな奴の足なんぞ洗ってやるこたぁない。そんなことするくらいならあたしの肩揉め、肩を――おっと、今こっち見たよ。勘のいい娘だね――あたしが様子を見に来るとすぐ気がつくんだから……やっぱり親子だからかねぇ。近くに来ただけでなんとなくわかるもんかも知れないね……あっ、あいつ、猫が顔を洗う真似なんかして――あたしが見てるの知っててわざとやるんだからまったく――誰に似たのか頑固な娘だ……おや、なんだい、もう家ン中入るのかい。もうちょっと居ればいいのに……ええ、なにしてんだか、ちょいと……」
「彦次郎さん。いい機会ですのでお話があります。どうぞそこへお座りを」
「いい機会って……なにかあンのかい?」
「喜んでいただけるお話です!」
「おいおい、戸口に向かって大声出して――誰に向かって話してンだい。俺はこっちだよ」
「彦次郎さん。わたくし、お腹に赤ちゃんが出来ました」
「えっ? 赤ん坊? 誰の――って……おれだよな……」
「彦次郎さんとわたくしの赤ちゃんです」
「えーと……赤ん坊が出来たって……覚えはあるんだが、実感がなくって……」
「うれしくないのですか」
「そりゃ、うれ……うれしいよ。でもなぁ、お玉。成り行きでこんなことになっちまって、今や夫婦同然とはいえ、親父さんのことを考えると――」
「今さら何を言うのです。それなら出来てからではなく、赤ちゃんを作る時に父のことを考えて下さい」
「そ、それはちょっと……」
「でしたら覚悟を決めて、喜んで下さい」
「うーん、ちくしょうッ! うれしいッ!」
「うーん、ちくしょうッ! くやしいッ!」
「どうなさったんです、あなた」
「どうもこうもあるかッ! お前が好きにさせろなんぞ言うから、お玉は……お玉は……」
「どうしたんです」
「子供が出来たんだ!」
「あら、おめでたい」
「めでたいことがあるかッ! 相手はあの魚屋だぞ」
「いいじゃありませんか。職業に上下はないんですから」
「ただの魚屋じゃあない、猫の魚屋だ」
「犬のお医者だって鳩の豆屋だって、世間にはたくさんあるでしょ」
「あいつは猫なんだぞ! 猫が魚を売ってるんだ」
「魚が猫を売って歩いているよりいいじゃありませんか」
「魚が猫……気味の悪いこと言うな! ……想像しちゃったじゃないか」
「でもお玉がねぇ……ついこないだまで子供だ子供だと思っていたのに、もう初孫の顔が見られるなんて。男の子かしら、女の子かしら――ねえ、どっちだと思う?」
「産まれてもないのにわかるかい! ん? 待てよ……おい、産まれてくるのは人間の子供だな」
「なに言ってるんですよ。そんなことは決まってるじゃありませんか」
「よおし、あいつの猫ッ被りもこれまでだ。猫に人間の子供が産まれるわけはないんだからな。もしも猫の仔が産まれたらあいつは猫だが、人間の子供が産まれたら、あいつはやっぱり人間てことに――」
「ばかなことを言うんじゃありませんよ。誰が猫なもんですか」
「いいや、あいつは一年間、猫でいなくちゃいけないんだ。よぉし、こうなったら早く産んで、あいつの化け猫の皮を剥いでやる」
「なにも、あなたが産むわけじゃないんですから――」
「うーん……うーん……産まれる……」
「お、おい、お玉……なんとかもう少し我慢できねえか? 約束の一年は今夜限り――あと半刻もすりゃあ夜が明けて、晴れて人間の子供が産めるってのによ、今産ンじまったらお前――親父さんが外で手ぐすね引いて待ってんだよ」
「うーん……うーん……」
「ああ、ちくしょう、代わってやりてえけどなぁ……どうだ、お玉。どうにもならねえか?」
「はいはい、男の人は外へ出ていて下ッしゃいねぇ」
「なぁ、産婆さん。ちょいとわけがあって、産むのは陽が昇ってからにしてもらいてェんだけど……なんか方法はねえもンかな? 産気止めの薬とか、子供封じの御札とか……」
「ばかなことを言いさるな。赤子なぞ時がくれば自然と産まれて来るもんじゃげ、なげに止めようがあろうと。さあさ、早く出っしゃい」
「お、出てきたな、魚屋!」
「あっ! ニ、ニャア」
「お玉はどうした? お玉は無事か!」
「ニャゴニャゴ」
「こ、子供は産まれたのか?」
「ニャダニャダ」
「ふん、ネコネコしていられるのも今のうちだよ。もうすぐどんなに猫だとがんばったところで言い逃れのできない証拠が産まれるんだからね。そのときは魚屋――もう着物の弁償だけじゃ済まないよ。この一年、お玉を家から連れ出して、挙げ句に子供までこさえて……おのれ魚屋、どうしてくれよう。お前の足の裏を判子に彫って、歩くたんびに魚、猫、魚、猫って足跡がつくようにして――」
「ニ、ニャ……」
「ああ、まだか、お玉。早く産んでしまえよ。我慢するんじゃないぞ。早く丈夫で元気な子を産んでな、万が一にも猫なんぞ……ぶるる――と、とんでもない、なにが猫だ――そんなもの産まれるわけが……いくらお玉が強情だろうと、意地だけで猫の仔を産めるわけはない。な、そうだな、魚屋」
「ニ、ニャア……」
「ニャアってお前――人を不安にさせるんじゃないよ。本当はお玉もお前も猫じゃないだろ、産まれてくる子も猫じゃあないね」
「ニャゴ、ニャゴ」
「ニャゴニャゴじゃないッ! 人間の子供に決まってますと胸のひとつも叩いてごらん。な、魚屋――そうだな」
「ニ……」
「いいかい、ここにはあたしとお前しか居ないんだ。な、猫の振りなんぞよして、こっそりあたしにだけ、大丈夫だって一言……」
「ニャアァ?」
「疑うのかい? あたしは頑固屋って呼ばれているんだ、こうと決めたら口は固いよ。決してお前が人の言葉をしゃべったなんてことは誰にも――」
「ニャアニャアニャア」
「なに? あたしがどうした? あたしは誰にも……あ、そうか。あたしが聞いちゃっちゃあいけないのか……よぉし、わかった。半刻はまける。夜明けまで待たなくともいい。もうお前さんは猫じゃないよ。だから――一人娘のお玉が子供を産むんだ――あたしの初孫なんだよ。な、魚屋……魚屋さん、頼むから大丈夫だと……これ、この通り、手を合わせる。あたしが悪かった。もう猫の真似なんぞしなくていいから、ちゃんとしゃべっておくれ――」
「……エー……エヘン……あ、あの……さ、魚屋の彦次郎でございます。改めましてその――お嬢さんのお玉さんとのことを――」
「おお、しゃべった、しゃべった――猫じゃない、猫じゃない」
「エー、これからはその――生まれ変わったつもりで――」
「フギャー! フギャー!」
「お、おい、う、産まれたのかい――なんか、猫の鳴き声に似てるけど――ああ、産婆さん、ちゃんと人間の子だろうね」
「はいはい、元気に産まれんさったで。母御も無事でござっしゃる」
「娘も……お玉も無事か。さ――は、早く孫の顔を見せておくれ」
「はいはい――ほぉら、珠のような男の子だで――」
「玉のようなって――まさかこの子も猫に……」
「なに云ってんですよ。人間が猫ンなるわけないでしょうが」
「だってお前が、さっきまで――」
「心配しなくたって、もう誰も猫なンぞになりゃしませんよ――おう、お玉、お前が子供を産むって大仕事をくれたんだ、おれもがんばって一仕事してこねぇとな。――へへ、こうして天秤棒を肩に担ぐのも久しぶりだ。アラヨッと――」
「ワンワンワンワン――!」
「ぶ、無礼者! よくも武士の面体に生鰯を――ペッペッ――そこへ直れッ!」
「あ、あの――ど、どうぞご勘弁を、今度は犬の野郎が――アワワワワワワ――ワン!」
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