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キルスティン・ホワイト『スター・ウォーズ パダワン(上)(下)』(スター・ウォーズ 小説感想③)
あらすじ
クワイ=ガン・ジンのパダワンになって間もないオビ=ワンは、どうにかして任務に出て、自分の実力を認めて貰いたいと切望していた。だが、いざ任務へ出かけようというとき、クワイ=ガンの姿はどこにもない。師に見捨てられたことに苛立ちを覚えたオビ=ワンは、己の力を証明するため、たった一人で任務へと出発する。辿り着いた先の謎の惑星で出会ったのは、フォース感応力をもつ野性的な若者たちの集団だった……。
ハイ・リパブリック外伝としての新三部作前日譚
「スター・ウォーズ」のヤングアダルト向けスピンオフ小説を精力的に出版しているGakkenが今回刊行するのは、表紙の"A STORY OF YOUNG OBI-WAN KENOBI"が示す通り、16歳のオビ=ワン少年を主役とした単発作品『スター・ウォーズ パダワン』です。原題はただの『Padawan』だったところを、日本の読者に紹介するにあたってオリジナルの副題が付けられたことで、誰の何の話なのか一発でわかるように配慮された気遣いが実にGJ。編集部の心意気には頭が下がります。
少年時代のオビ=ワンを描いた小説といえば旧レジェンズ時代に20冊近い未邦訳の児童向けシリーズの「Jedi Apprentice」が存在しましたが、本作でもその登場人物のひとりでありオビ=ワンと友達以上恋人未満の微妙な距離感にあるパダワン、シーリ・タチ(本書ではシリ表記)が登場するなど、実質的なリファインの役割を担っているともいえそうです。
さりとて改めてカノンでやるからには現在進行形の作品群にきちんとフィットする形で描き直されており、評議会と衝突してばかりの変わり者のマスター・クワイ=ガン、ジェダイを辞めながらも聖堂に出入りすることを許された"ロスト"のドゥークーといった新三部作周りの設定に厚みを持たせつつ(なんと、お馴染みのあのキャラと出逢った経緯も明かされます)、同じくGakkenより刊行中のリース・サイラスシリーズの登場人物でもあるオーラ・ジャレニと評議会に縛られずフォースを探求するウェイシーカーの生き方が悩み多きオビ=ワンを任務に向かわせる大きなきっかけになるなど、「ハイ・リパブリック」を追ってきた読者への導線も引かれているのは見事という外ありません。
揺れる若者
Gakkenから刊行されている一連の「SW」小説群に投げ込まれているチラシには、"10代のゆれ動く心を描いた「スター・ウォーズ」のヤングアダルト小説"とあります。オーダーを抜け自らの指針を失っていたアソーカ、研究者肌で図書館篭りが趣味であるのに不本意ながら任務に駆り出されるリース――大なり小なり不本意な事情を抱えた彼らが事件を通してひとつ皮が剥けたように、本書もまた同年代の仲間に対する劣等感と師匠との関係が上手くいっていない(と感じている)オビ=ワン少年が不慮の事故による冒険で、外の世界と接することでジェダイとはどうあるべきか、フォースとは何かを自問し、答えを見つけていきます。
そうした悩みの中には恋愛も含まれているのも思春期らしく、ジェダイは執着が禁じられているため恋愛や結婚は禁忌であるイメージですが、実はパダワンたちの間では意外と人目を盗んでそこそこの"おいた"も常習化しているらしいのは不健全なれどすこぶる健全というか、いまどきな視座です。大人の見えないところでそこそこ学んだワルいことは青春時代に置いて、立派なジェダイとして巣立っていく。いまのジェダイ・マスターもそうして大人になってきた。ジェダイに抱く神聖さは随分と削がれてしまいますが、至極当たり前といえば当たり前で、伝説の英雄たる彼らとてわれわれと何一つ変わらぬ人間である、という主題はそれこそ続三部作のスカイウォーカー像に対するそれにも通底します。
思い返せば、今回オビ=ワンが聖堂を飛び出す要因を生んだオーラ・ジャレニも、初登場を果たした『イントゥ・ザ・ダーク』では、彼女と友人であるジェダイ・マスターのコーマックが若かりし日に犯した苦い過ちが幕間にて綴られていました。いつの時代にも普遍なパダワンたちの苦悩と青春が200年の時を越えてジェダイ聖堂という場所でクロスする。全く別の時代を舞台にしたお話でありながら、同時に進行しているかのように錯覚する。目の前にある物語の先に広がった何世代にも渡る無限の奥行きに思いを馳せる――それこそがスピンオフをはじめとした「SW」コンテンツ全体を貪る醍醐味です。
本書が米国でリリースされたのは2022年の7月なのですが、そこから現在までの3年間に何があったかといえば『テイルズ・オブ・ジェダイ』が配信され、『アコライト』が作られ、先月には『スケルトン・クルー』が大団円を迎えました。どれも本作の刊行当時には影も形も存在しなかった物語です。にも関わらず、頁をめくる度、それらのタイトルが頭を過るから不思議なものです。
未知なる"力"
本作でオビ=ワンが訪れることになる惑星レナーラには"力"と呼ばれる得体の知れない何かがありました。フォースのように身体を強化することができ、星全体がひとつの生命であるかのように結びつき、しかし念動力のようなものはない。その正体は一体全体何なのか。結論から述べればオビ=ワンの嫌な予感は的中し、フォースのように見えたその"力"は残酷な真実のもとに成り立っているのですが、果たしてそれは本当にフォースではなかったのか。未知なる"力"を使役するために大きな代償を払っていたことを知ったオビ=ワンは騙されたと激昂するも、君たちのフォースとどう違うものなのかと逆に問われ、答えに窮します。
昨今の「SW」ではそれぞれの惑星、各々の文化圏に根差した"フォースのようなもの"が多く登場することはご存じの通りで、私はそれを"フォースの多様性"と捉えていますが、この多様性という表現もどうにも一筋縄ではいかなさそうだと最近薄々思い始めています。即ち、地域やコミュニティーによってフォースの呼び名が違っているわけではなく、フォースそれ自体でさえより大きな何某かの一面にすぎず、強大なる力A、B、Cは互いに全く別の性質を持っていてその中のパターンAがたまたまフォースと呼称されているだけなのではないかと。
惑星そのものが共生しているかのようなレナーラの生態系はまるで「ニュー・ジェダイ・オーダー」シリーズのゾナマ・セコートを思い起こさせますが、気候まで変動させてしまう超自然的な現象の数々はそういえば『反乱者たち』のアトロン撤退戦のようでもあり、中立を標榜するベンドゥの操るそれも、いま振り返ればジェダイやシスの宣うフォースとはまた違った(しかし同根の)大きな力の一部だったのかなと考えを巡らせてしまうのでした。