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Twitterに対し消極的になった話

1〜2年前は、いわゆるツイッタラーと呼ばれる立ち位置にいたと思う。アカウントは並行して最大で5個使っていたし、そのうちの主要なアカウントではとにかくことある事にツイートしていた。しかし最近になるにつれ、Twitterを開き、ツイートすることや閲覧する時間が著しく少なくなっている。アカウントも幾つか削除した。その背景にある私なりの考えを、(妥当性は棚上げにして)3つ紹介する。

①ツイートする価値が分からなくなった


例えば「課題終わらんすぎる」や「今日暑すぎ」といったツイートは、まさに呟き(tweet)の産物であり、非常に人間らしい、尊いものに思われる。しかし私は、そんなことをツイートしたところで課題は終わらないし暑さは和らがないと改めて気づき、なんて意味の無い事だろうという所感に至った。ついでに言うと、ツイートをする時間を課題に当てたら数秒早く終わらせることが出来るのではないかと考える。
また、上のツイートを他人が見たこと、いいねをくれたこと、リプライをくれたことによって、これまた課題は減らないし涼しくもならないことは自明である。

愚痴ツイートや病みツイートについて
ツイートの1つの種類に、愚痴ツイートや病みツイートがあるが、これらも「ツイートしたら何か変わるのか」を現実的に自分に問い直すと良い。私はこれに対する答えが(自力で)分からなかったため、最近ではツイートすることはなくなった。そして、愚痴や病み感情をツイートすること自体に発散という意味で価値を見出しがちであるが、その安心感が、解決のためのプロセスや向き合い方からの逃避を助長する懸念がある。ツイートすることで得られる満足感や安心感は基本的に虚構であり、それについての本来の向き合い方を歪ませかねない。

②他の人のツイートを見る価値が分からなくなった

①でする価値のないツイートの事例を挙げたが、する価値のないツイートを見る価値もない。他人が「課題終わらんすぎる」と嘆いていることを知って、自分は何が変わるのだろう?もちろん、自分にとって有益な情報であったり、気分の晴れる面白いツイートを見ることなどは自分にとって価値がある。しかし、わざわざ見る必要のないようなツイートがTL(タイムライン)の大部分を占めるのも事実である。別の媒体やプラットフォームを用いれば、もっと効率良く、確実に、正確に、自分にとっての価値をそこから見出すことはできるはずである。

③ツイートに見え隠れする承認欲求

様々なエッセイや小説を読むようになって、自分の気持ちのあり方や他人との付き合い方など、色々な思想に触れながら自分なりに考えるようになった。次第に、他人に影響を受け続ける人生を脱却しよう。自分の思想や感覚を自分で反芻し、吟味し、噛み締めること、それに尽きるではないかという思いが強くなった。ある日、自分がツイートする意図について再考してみると、無意識的、というか潜在的に常に他人からの見え方を意識している思考があることに気がつく。いわゆる承認欲求である。私は絶対に承認欲求を行動原理にしたくないと考えているため、自分のツイートの理念に承認欲求が潜んでいないかを慎重に精査し、明確にそれ以外の意義があるツイートだけをしようと心がけた。しかし、ツイートと承認欲求には思ったよりも根深い関連性があることを実感し、以来、するツイートがなくなってしまった。
他人のツイートを見るときも同様に、ツイートの背景にあるであろう承認欲求を勝手に憶測して勝手にうんざりしてしまうようになった。例えば、「今日は楽しかった!ありがと✌️」というよく見るような報告ツイートについて考える。(インスタのストーリーをイメージしてもらっても構わない。) 文面をその通り汲み取ると「遊んでくれた人への感謝」であるが、もしそうなら直接、またはLINEやDMなどで言えば良い。ところがわざわざ不特定多数が見られるところに書いているということは、他人に見られると良いことがその人にとってあるわけである。推察するに、充実感と関係性のアピールをしたいのではないだろうか。両者に承認欲求が関係しているのは言うまでもなく(特に充実感の誇示に関して)、それだけでうんざりなのだが、更に関係性のアピールの動機を考えると、第三者に知ってもらうことによって関係性が保証された気になるという心理もあると思う。「あの人たちは仲が良い」というお墨付きを得たいのである。それにより、自分たちの仲が良い関係性を確立できると考えているのだろう。(潜在的にそういう意図が存在する可能性がある。) しかし言うまでもなく、自分を起点とした関係性は、第三者に抱かれた印象の影響を受けない。自分が仲が良いと思っているかどうか、ただそれだけである。よって関係性を誇示する行為も本質的には何も生まない。


友人の反応

掻い摘んでではあるが、この考え方を友人に話した。友人は、基本的には同意しつつ、私が見落としている行動原理について指摘してくれた。

状況を知ること、知らせることで友好関係を築

他人の些細な行動や思考などを綴ったツイートには、このような価値があると考えていた。人間の本質的な感情や弱みを知ることが友好関係の向上につながり、それにより新たな視点での物事の考え方を獲得したり、新たな経験ができる。他者との関わりを持ち続けることが自分にとって有意義であると指摘した。
私は、そのときまさに友人によって新たな視点を獲得したわけだから、これに関して否定のしようがない。

今後は、Twitterが友好関係を維持、向上させるためのツールであることを意識し、どうでも良いツイートをしたり見たりする自分と他者を許容できたらいいな·····と思う。1人で考えすぎて堂々巡りしていたのかもしれません。何が正解かは分からないですが、この記事が皆様にとって、SNSの向き合い方の確立や視点の拡張などの一助になれば幸いです。

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