はじめに、私はマセクシャルである。マセクシャルとは恋愛対象が男性である男性のことを指す。ゲイとの違いは、定義に性自認が含まれていないこと。自分の性自認を確定したくない(する必要が無いと思っている)ため、マセクシャルと自覚している。しかし、マセクシャルという言葉の知名度が低いため説明するとき(滅多にないが)はゲイと名乗っている。以下の記事は、便宜上、男性が恋愛対象である男性のことはゲイと称する。 余談はさておき、とにかく同性愛者である私には、その自覚が芽生えてから両思いになる
形 大きさ 重さ 接点 重心 位置エネルギー 驚異的な采配が 意志を宿す 世界を知ろうと 己を知ろうと 動き出す 叶うことはないと 太陽は知っているから 風が吹く
行き先なんて無いのに ゴミ箱から地図を拾って 現在地を確かめる操り人形 を操る人間は 方位記号が読めないから 追加で人形を放つ 人形同士が邂逅して 互いの糸を切る 自ら賽子を転がし 自ら進む 形成されるネットワーク 生成されるフィードバック 可愛い知性と経験を赦して リュックに詰めて 行き先を知る
言葉を知らない虫たちが 底無しに澄み切った眼差しで 本を読んでいる僕の元へやってくる 無限を黙殺 有限に心酔 鈍重 安心しないで 分数を畏れないで 実数から抜け出して 噴水の周りを飛び続ける夢 人間の夢
沈みたがっている左腕を愛しながら 体幹を総動員 無能な瞼を愛しながら 顔をうずくめる 一切の光から隔絶する 尖った鼻も傾慕することを忘れずに 横隔膜が上下する まるでシリンダー錠 シアラインは揃わないけれど エレベーターに潜り込んだ 監視カメラから目を逸らす 外は暗い気がする 急降下 天井に身体が張り付く 急停止 床に胴体がめり込む 動けない ドアが開く 外は予想通り暗い 一面に闇が広がっている 無限に続いている空間 ドアが閉まる まって! もっと外を見せて! エレベ
趣味で詩を書き始め、夏休み中に形にしたかったため15篇の短編詩集を作成しました。タイトルは『言葉にならない』。そこで本記事では、詩集の一貫したテーマになっている言葉についての僕の考察を書いていきます。次の投稿から詩を載せていきますが、本記事を読んでいただくとその表現の意図が分かりやすくなると思います。 言葉の誕生は善か悪か 僕は今、言葉があるおかげでnoteを書けています。言葉があるおかげで詩を書ける。みなさんの記事を拝読できる。大好きな森博嗣先生の小説やエッセイを楽しめ
お久しぶりです。ちばです。 note活から疎遠になっていましたが、また戻れたらと思っています。 離れていた原因としては、 ・通学中にnoteを書いたり見たりすることが主だったため、夏休みに入りそのルーティーンが崩れたこと ・記事にもした恋愛が実らずに終わったことのショック(友達としては良好な関係です) があります。 そして、もう1つ、 ・詩を書き始めたことにより、思想の文字起こしをnoteから詩で行うようになったこと です。先日、8月初旬から書き溜めた詩15作を
お時間があればこちらから読んで頂けると嬉しいです。 2回目に会う好きPのSさんと、原宿や表参道でショッピングをした帰りの電車で書いています。 本当に本当に私にとって最悪な1日でした。起こった出来事を話していきます。 一通り店を見終わって、夕方、竹下通りの地下のWEGOで買い物をしました。そこにはプリコーナーが併設されており、買い物終わりにノリで撮ることになりました。6枚撮れるのですが、もちろん1枚ごとにシャッターのタイミングは指定されていて、それに従って撮影をする、はずで
厭世観から解放された話を書いていたけど、結論が「恋の力」なの読んでいて絶対に面白くないのでやめました。( ; ; ) でも、好きな人ができて初めて人生に意味を感じるようになったのが私にとって革命的でした。
最近はわざわざnoteに書くようなトピックが無いため、掃除や部屋の汚さに対する私の価値観を話そうと思う。誰が興味あるの 前提として、自分の部屋、または一人暮らしに焦点を当てている。 端的に述べると、あからさまな不都合が生じるまでは無理に掃除する必要は無いというのが基本理念である。うつ症状を持つようになってから、私も例に漏れず部屋が汚くなった。出したものを元の場所に戻せない、ゴミをゴミ箱に捨てられない、服を仕舞えない、など。そして、それらをまとめて整理したり掃除したりする気
私は、大学で建築を勉強しているのだが、最近は自分の本当にやりたいことが建築ではないのではないかと思っている。小学6年生のときの学活で将来の夢シートを書く作業があり、年収が高い職業を調べていて見つけたのが「建築士」である。何かを創作することが好きなので、自分で建物を設計することに何となく好奇心を抱いていた。荘厳な建物を目の前にしたときに感じる自分のちっぽけさというか、次元の違う規模の大きさが自分の前に立ちはだかる感覚も好きだった。中学、高校と進学、進級する中で一貫して数学が得意
翌日に学校に持っていく成果物がまだ終わっていなくて、徹夜するぞ!と意気込んでいた夜。その日はバイトだったため、23時前に家に帰り、夕食や風呂を済ませてからスタートする予定だった。ところが、徹夜をすると決めた途端に無限の時間を得られた気がして、ついつい他のことをしてしまう。多分、課題の残作業量的にそれほど切羽詰まっていなかったし、妥協ラインを自分で決めることができる安心感があったことも影響しただろう。 まず、例のSさん(こちらの記事より)を通話に 誘って、1時間くらいゲーム
マキシマイザーとは完璧主義者のことで、人間関係におけるマキシマイザー思考は、友達を友達と認めるハードルが高いことを意味する。新しい関係を持ちそうになっても、「もっと良い人がいるはず」という思考で切り捨てたり、既にいる友達より仲良くなれると思わないから、関係を広げようとしない。私は高校生の頃からこの傾向が顕著に出ていて、1人一緒にいたいと思える人ができたら満足し、何をするにも行動を共にする。今の大学生活も、他に喋れる人がいないわけではないが、1人飛び抜けて仲が良い人がいるため、
1〜2年前は、いわゆるツイッタラーと呼ばれる立ち位置にいたと思う。アカウントは並行して最大で5個使っていたし、そのうちの主要なアカウントではとにかくことある事にツイートしていた。しかし最近になるにつれ、Twitterを開き、ツイートすることや閲覧する時間が著しく少なくなっている。アカウントも幾つか削除した。その背景にある私なりの考えを、(妥当性は棚上げにして)3つ紹介する。 ①ツイートする価値が分からなくなった 例えば「課題終わらんすぎる」や「今日暑すぎ」といったツイート
この記事は、私の自律神経失調症を発症した原因とその後の生活の話と、そこから決定論っぽいことに考えが帰着した話です。「闘病日記」みたいな趣旨ではないので具体的な経験は書いていません。医学にも哲学に詳しくないので、個人の戯言としてお読みください。(noteなんてそんなものか) 私は約2年前の6月(当時高校3年生)に自律神経失調症と診断された。明らかに異常な気分の落ち込みと身体的不調により学校を欠席した日、健療院というところで診察を受けた。元々HSPによる生きずらさやマイノリティ
①承認欲求がない人 ②承認欲求があるが、なくしたい人 ③承認欲求があり、それを認めている、または疑問に思わない人 人間は、上の3つのタイプに分類できる。私は②タイプである。よって、承認欲求はなくすべきだという主張の元で話を進めていく。 「Aさんは、可愛く見られたいからお洒落をする。」という例を考えよう。承認欲求が行動の動機になっているわけだから、この例は望ましいとは言えない。では、この例の何がいけないのかを考察する。 Aさんは、自分では可愛く見られたいという動機のつもりで