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第8回 「看護覚え書」のおぼえがき

私は障害のある方が利用するグループホーム(以下GH)に勤務しています。そこで行ったGH内研修での記録です。今回は6章の食事を読んだ感想と7章食物の選択について書きます。

6.食事  7.食物の選択

いつもは1章分ずつですが、今回は食べることに関する章が2つ並んでいたので6・7章を一緒に勉強することにしました。世話人の皆さんにとっては日々の業務に直結するテーマですね。今回は食事に関することなのでイギリスと日本の文化的違いを如実に感じる内容でした。私がいつもこの本を読む際には「GHでの支援にこのナイチンゲールの想いを活かすとしたらどう捉えると良いかな。」と考えながら読んでいます。

160年前に書かれている本なのに、現代でも当てはまることがたくさんあります。6章はナイチンゲールの看護に対するプロ意識の高さに驚きました。
7章は日本とは違うイギリスの食文化がわかり興味深い内容でした。そのため、そちらに注目してしまい1度読んだだけでは、「今回の章は日本では参考箇所がないな。」「やっぱりイギリス人は紅茶が大好きなんだなー。」といった感想で終わってしまうかもしれません。

しかし、食事に関する看護師の役割(この本の副題を念頭に)という視点でみると参考になることがたくさんあり、やはりとても勉強になるのでした。GHでは、ここまで重病な方をお世話する機会はありませんが、風邪をひいて寝込んでいる利用者さんに対して活かせるような支援をたくさん教えてくれているように感じます。

第6章 食事
●食事の時間帯についての注意不足による餓死
 患者が食べ物を食べられるようにする方法(1時間ごとにスプーン1杯ずつあげるなど)について注意の向け方が不足している。
●生命は往々にして食事時刻の数分のずれに左右される
 分単位で時間厳守の栄養摂取が指示され、実施され、その行き届いた看護によっていわば命拾いする患者の数は極めて多い。
●慢性病の患者によく起こる餓死
 患者の衰弱がもっともはげしい時間帯について観察し、衰弱の激しい時刻を予測する。そして、その時刻を避けるために、食事の時刻を組み替えてみる
●食物を患者のそばに置き放しにしないこと
 食物は適切な時刻に配膳し、食べても食べなくてもしかるべき時刻には下膳すること。
 いつなら患者が食べられるか、よく観察してその時刻をつきとめること、それはあなた方の任務である。
●患者は自分の食事以外の食物を見ない方がよい
・なるべく患者には他人の食物を目にしたり、その匂いを嗅いだりさせないこと。
介助しながら話しかけたり話させたりしないこと
食事中に仕事をもちこんだり話しかけたりしないこと食事中に心急く思いをさせたりなどしないこと。「これは例外なしの絶対原則」である。
・患者が食物を食べられるかどうか、それが栄養として吸収されるかどうかは全面的に以上の原則、とりわけ時間厳守という第一の原則が守られるか否かにかかってくる。
看護師は知的な存在であって、たんに患者の食膳を上げ下げする運搬人などではないというのであれば、彼女が持っている知性をこれらのことに活かそうではないか。
●非常に些細な事の注意
 患者のカップの受け皿にものをこぼさないこと。ちょっとした注意のあるなしが、患者の安らぎにひいては患者の食事を摂ろうとする意欲に大きな相違をもたらすのである。

看護覚え書P.112~P.120 一部抜粋

第7章 食物の選択
●病人食についてのよくある誤り4つ。
 1.牛肉スープこそが最高の栄養食品だと思っていること。
 2.卵1個は肉1ポンドに匹敵するとよく言われているが卵が身体に合わな   い患者がどんなに多いかほとんど知られていない。
 3.肉のみが回復に必要な唯一の食物であると考えられていること。
 4.葛粉に絶大な信頼を寄せていること。
●牛乳、及び乳製品は病人食としては最も重要な食品の一つである。
●特殊な病気の時に特殊な食物を欲しがることには意味がある。
患者の身体は消耗からの回復に何を必要としているか、患者は何が食べられ、何が食べられないかということ。まさに、ここにおいて看護師の観察が実質的に医師を助ける。
●ゼリーにはあまり栄養のないこと、また下痢を起こしやすいことは周知のことである。
あくまでも病人の注意深い観察、ただそれのみが最適の食事を決めるうえでの鍵を握っているのである。 
●最も肝心な問題は、患者の胃は何を吸収できるかということ。これを判定するのは患者の胃だけである。
護師の任務の中でも他に比較できないほど重要な任務は患者の食物の影響を注意深く観察してそれを医師に報告することなのである。綿密で、正確な観察が行われるようになればそれがもたらす利益や医師への貢献は計り知れない
●賢者は紅茶の害を騒ぎすぎ、愚者は病人に紅茶を飲ませすぎる。
●ココアはただ身体に脂肪をつけるだけである。
飲み物の量を増やすことはその栄養価や元気回復の効果を増やしたことにはならない。それどころか患者の消化力に過大な負担をかけるため細心の観察と注意とが要求される。

看護覚え書P.121~P.134一部抜粋

私の場合は、イギリスの食をあれこれ想像しながら、また現代には管理栄養士さんがいることの有難みを感じながらの読書になりました。食文化の違いこそあれ、同じ人間ですから体調を崩した時に何を食べるかというのは消化の良い胃にやさしい物という基本的なことは一緒でしたね。

それにしても、いつもの通りなんですが、ナイチンゲールのスパッとした物言いには感心してしまうし、くすっとなるところもあります。葛湯はしょせんでんぷんと水だとか、ココアは脂肪をつけるだけとかにはつい笑ってしまいます。しかし、どれも簡潔に本質をついたことを述べているので、そこが大切に感じます。

食事が生きるうえで非常に大切なことは当然のことです。当たり前のこと過ぎて我々は意識しなくても食べたり飲んだりしています。健康な時はそれでも大丈夫なことが多いので好きなものを食べて幸せを感じたり、簡単な食事で終わりにしたりと適当に済ませてしまうこともあります。

でも、やはり体調不良になったときは食事について良く見直そうと思ったりすることは多いですよね。食事によって日々、身体は作られているんだなとそんな状態になると改めて思ったりもします。

つまり、当たり前すぎて当然のように過ぎていくことも意識をそこに向けることでより良い結果に結びつくということではないでしょうか。

ここで、また思いだしてもらいたいのは看護覚書の副題です。「看護であること 看護でないこと」です。

看護であることの5つの物差しとして、ナイチンゲール研究家の金井一薫先生は以下を示しています。

①  生命の維持(回復)過程を促進する援助

②  生命体に害となる条件・状況を作らない援助

③  生命力の消耗を最少にするような援助

④  生命力の幅を広げる援助

⑤  持てる力、健康な力を活用し高める援助

自分の支援に不安があるときは、自分で行っている支援は上の5つに当てはまっているかなと考えてみます。上の5つのどれかに当てはまれば「看護であること」になり、支援として正しいと言えるでしょう。

第6章・7章で書いてあることは「こんな細かい助言までよくするな。」という印象をもつほど看護師に対する細かい助言でした。しかし、すべては「看護であること」に結びついていくものであると思うと細かいことに感じた助言もプロ意識の表われに思えます。

食事の様に当然大切と思われていることも当然すぎて、大切という意識が向いていなければそれは看護でなくなり生命力を消耗させて害を生んでしまうことになりかねません。生命力を回復促進するような支援には「観察と創意工夫と忍耐力」がやはり必要なようです。

観察という言葉は今回よく出てきました。何事もその状況を正確に捉えなければ正しい判断にはつながりませんから、状況を正確に捉えるためにも観察は支援者にとってとても大切なことですね。

今回の章で私が個人的に印象的だった文章は「看護師は知的な存在であって、たんに患者の食膳を上げ下げする運搬人などではないというのであれば、彼女が持っている知性をこれらのことに活かそうではないか。」という一文でした。ただ、食事を上げ下げすればよいというわけではなく、どのような患者であるのか観察し、どのように提供するか創意工夫することに意識を向け、看護であることを忍耐強く継続するということが大切なんですね。

「何を食べるかは患者の胃袋に聞け(食べる時間・量・質を含めて)」と教わったことを思い出します。胃袋に聞けと言われてもじゃあどうするのかとなると観察するということですね。単に漫然と与えられた仕事をしているのでは胃袋の声は聞こえません。難しいことですが観察し必要な支援を判断することはとても大切なことであるということをこの章から学ぶことができます。そしてその判断を応用して次の支援へとつないでいくことが必要です。

ここまで読んでくださりありがとうございます。次回は8章 ベッドと寝具類について書いていきます。


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