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10.半吉色グラフィティー

7月6日
外泊当日。
朝から両親も姉も紅も虎之助も僕の家に集合してくれていた。妻と連絡を取り、微熱になっている事を確認した。大丈夫そうだ。

9時から作業療法、10時から理学療法のリハビリを終えてから、車の乗り降りを確認して、外泊手続きを行なった。

前の家庭訪問の時とは違い、一泊家で過ごせる。そう思うとなんだか嬉しくてユージュアルサスペクツのラストシーンのカイザーソゼみたいに歩いて車に乗った。

たった一泊二日なのに、山ほど荷物を持っていった。車で10分ほどで家に着いた。

相変わらず自分の家という感覚はない。というかこの家に住んだ期間より、病院の307号室にいる方が長い。もはや旅行と言ってもいい。

子供、両親、姉、わんこがいる。妻がいないのは本当に寂しいが、まずは落ち着いた。

子供が嬉しそうにしてるのが本当に嬉しくて、早く帰らなきゃと思った。

母親の作る親子丼と味噌汁を食べた。病院食に慣れている分全く薄味ではなかった。本当に美味しかった。

姉が奢ってくれアレのアレは、2切れだけ食べた。あんなに背徳感のあるソレは今後味わえないだろう。本当に美味しかった。

ノンアルコール飲料を飲んでみた。脊髄酒男でも飲めた。現代の技術の発展に感謝するほど美味しかった。本当に美味しかった。

セラピストの方々と取り決めた事項を確認していく。床に座っての食事や、階段、家の中での装具使用、家族との会話での言葉の詰まりなどなど。

両親と仕事や保険など今後のことについて話し合った。また退院時期についても、外泊を定期的に行えるなら当初予定の9月上旬でも耐えらそうだと話した。

久しぶりに子供達と一緒に風呂に入った。

この日はまだ自分の寝方が定まってなかったのて、子供とは別で寝た。それでも本当に満足だった。病院で色々と練習してきた事が、改善点はあったもののちゃんと家でできて成り立っている。

改善点を病院に持ち帰って、リハビリをしよう。

次の日起きて子供や家族と過ごして、妻宛てにしたためていた手紙を置いて、1回目の外泊が終わった。

病院に戻ってすぐリハビリが入っていて、家でやれた事、やれなかった事を確認した。

僕が凹んだらよく相談していたケアマネージャーさん、リハビリのチームリーダーさんにも感謝を伝えて、これから何とかやっていけそうだと話した。

このお二方はちょくちょく僕の部屋に来て、悩みや話しを聞いてくれた。そして外泊に関しても前向きに動いてくれた。メンタルケアは本来の仕事とは違うはずだが、本当に助かった。

リハビリ病院にはメンタルケアを行える人がいた方がいいと思う。

僕の場合、STさんリハビリのチームリーダー、ケアマネさんと多くの人に気にしてもらって立ち直れた。しかしこれは本来の彼女たちの仕事ではない。

思いっきり泣いて頼った癖に何だが、負担を強いているようで申し訳ない。他の病院はわからないが、今でもメンタルケアは必要だと思う。

ともあれ、外泊を経て再び前向きにリハビリをすることができるようになった。

7月13日
ずーみーさんにYouTubeでメッセージを送ったら、XでDMしておいでと言ってもらえた。

今までSNSをほとんどしてこなかった僕はほぼ何を言ってるかわからなかったが、ググってみるとTwitterだったやつみたいだ。

Xに登録してみた。脳卒中、麻痺などのワードで探していくと、多くの先輩がいた。日々の生活や麻痺ならではの悩みなどが投稿されていた。

麻痺手の強張り、日常でのリハビリ、身体障害者手帳などなど、興味しかない。

YouTube以外にもこんなにたくさんの発信者がいるんだと気づいた。

外の世界では自分と同じような病気になって、後遺症と共に生きている人がたくさんいる。そして個々の病後について教えてくれている。

もう味方しかいないじゃん。
嬉しい。シンプルな感想だった。

こうして僕は齢34にしてXデビューを飾った。

7月14日
朝から腕と足が強張って起きた。起きた時に強張っていた、ではなく、強張りすぎて眠りから覚めた。

寝ているのに右の手足だけ浮いている。スリラーだ。別にスリラーじゃない。

先生に強張りを取る漢方をもらったが、ここ最近の強張りは恐怖を感じるほどだった。これだけ動かして、電気刺激しても固さが気になった。

イメージとしては、錆びた金属のブランコの取手みたいな状態だ。腕を曲げると肘のあたりがギシギシいって抵抗がある。肩は腕を上げると痛い。

作業療法でこれまでできていた、ブロックを摘んで運ぶ。この行為が、指が開かずほとんどできなくなっていた。できていたことができなくなる事は、純粋にできない事より遥かに辛い。

理学療法でも足首が硬くなっていて今までより歩きにくくなっていた。この時装具と杖で歩けていたが、ぶん回しというこの病気独特の歩き方になっていた。足首が硬くなったことでこのぶん回しがひどくなっていた。

痙縮が来たのか。固まるのか。

しかしこの日は、友達が3人見舞いに来てくれた。この時アーモンドチョコにハマっていた僕にたくさんの糖をくれた。

家族以外でここまで笑ったのは入院して初めてだった。何にも変わらない下らない話しで、30分だけだったが涙が止まらないくらい笑った。

会話の内容なんて覚えてないくらい下らない事だったと思う。このメンバーで麻雀打ってるとき、こんなことばっか話してたなぁという内容。

僕を心配したり、悲しいとか可哀想なんて微塵も感じてなかったと思う。最高だ。駆け抜けて性春。

BBQで水鉄砲にワイルドターキー入れて撃ち合って、妻に怒られたこと思い出した。

僕はあと数ヶ月したら退院する。その時麻痺はどれぐらい回復するかわからないが、こういう友達との関係が変わらないようにしたい。

その日の夜、ずーみーさんとチャーリーさん、人間地雷さんの三人がライブをやるということで、自主トレしながら配信を見ていた。

普通に楽しむということを、当たり前にしよう。

この人たちを画面の外から見るだけじゃなくて、一緒に笑ったり話せたら、普通に楽しいだろうな。

コメントを書き込んでいた。話しの流れをぶった斬るほどの長文で。

コメントを読むなりいっぱい質問してくれて、今の状況や装具、皆さんの入院中の悩みや、ギリギリまでリハビリ入院をした方がいい理由など、僕のための時間のようだった。

ずーみーさんと連絡も取れて、本当に満足だった。この日からリハビリの方法や、障害者手帳の件など、直接連絡を取って教えてもらった。

嬉しくて看護師さんに状況を説明したが、昂っていたため、2割ほどしか伝わってなかったと思う。

ここまで構ってもらったくせに、寝落ちした。

7月15日
2回目の外泊の日。僕が病院に帰った後子供たちが悲しまないように、手紙を書いた。

文書(民明書房)

何よりこの日は妻が家にいる。5月4日以来初めて家族4人が集合する。この日は妻の作った生姜焼きを食べて、家でゆっくりした。やっぱり家族で家にいるのがいい。

次の日父と会社に行って社員さん達に挨拶したり、久しぶりの会社で父と話したりして今回の外泊は終わった。

この時点で黒い感情や将来の不安や悩みは消えて、時間をかけてしっかりリハビリをして、家に帰ろうと決心がついた。

外泊制度を使ってコンスタントに家に帰り、病院で練習した日常作業を実践する。その中での気付きや出来なかった事を再び病院に持って帰って練習、学習する。

そして家に帰ることで先輩方が言っていた、退院後に味わう無力感やぶつかる壁に先に触れることができる。

何より大好きな妻と子供と時間を過ごせるのは何にも変えられない。

地域やコロナ等の時期、回復度合いなど条件が重なってたまたまこういった入院形式を選ぶことができた。素直に幸運だと思う。

ネット上で先輩達と繋がることで、退院後の予習や、今の悩み、いわば補習ができる環境は、外泊ができなくても誰でも選択できる。

もし周りに大きな病気に罹って悩んでる人がいたら、どうか寄り添ってあげて欲しい。ただその人の病気の痛みや辛さは、結局当事者でないと理解できない。だから先輩達に知恵を借りる事を教えてあげて欲しい。XでもYouTubeでもいるはず。

自分や大切な人が障害や病気になるかも知れないのは、明日かもしれないから。

ともあれ半吉は、ここから今までに増してリハビリ無双をしていく吉。次回へ続く吉。

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