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19. 半吉の脳出血闘病記(完)

9月19日
食事前、違うチームのセラピストさんがわざわざ病室まで来てくれて握手してくれた。

いつも頑張ってましたね。お疲れ様でした。

シンプルな言葉が本当に響いた。この人はいつも病棟内を歩いてる僕に、声をかけてくれた。たまに歩き方が変わったことや、装具が変わったことも気付いてくれた。

自分の存在を認識して気にかけてくれることが、こんなに気を楽にさせることを知らなかった。

ありがとうございました。

山口百恵の引退コンサートみたいに感謝を口ずさんで、一人になって泣きかけているタイミングで、担当PTさんが部屋に来た。

僕のリハビリに参加してくれたチームの皆さんの寄せ書きを渡された。

まずい、泣きそうだ。
感情が昂って腕も上がってきた。

気が動転した僕はなぜかカッコつけてニヒルな笑顔で手を上げた。

食事前に思いっきり泣くところだった。

担当PTさんは、割と圧のある見た目の僕にかなりはっきり意見を言う人だ。そして恐らく保護者みたいな友達に恵まれている。妄想だが。

痛いとか辛いとか言ったところで、特にリハビリの方針は変えたりしない。

当初から僕の目標は、車椅子でなく歩いて退院することだった。それが達成できてからは、左側つまり健側が壊れないような歩行を身につけることになった。

達成判断が難しい目標だと思うが、担当PTさんはかなり戦略を立ててくれた。だからこそ、リハビリ以外の自主トレや病棟での歩行訓練の経験値や精度が上がった。

今後自費リハに通う予定だが、彼女がセミナーなどで通っているところに行ってみるつもりだ。

とにかく、杖も無く装具も無く歩いて退院できたのは担当PTさんとチームの皆さんのお陰だ。

この4ヶ月泣いてばかりだったので、さっぱり退院しておきたい。

その後最近入った若い左麻痺の患者さん、千葉県の患者さんと話した。

僕がこの二人くらいの時は、本当に人に見せられた状態じゃなかったな、と感じた。

最後に仲の良い看護師さんと話した。色んな事がこれから起こるだろうけど、まずは自分を褒めてあげなさい。と言葉をもらった。

また山口百恵みたいにお礼を言って部屋に戻った。

今日一日だけ自分を褒めよう。

とりあえずプリンを食べよう。

誰がプリンを食べたのか?

今日親が買ってくれたプリンを食べた。

次の日からは、家庭も子供も仕事もワンオペで守ってくれて、さらに毎日僕の濃い顔を見に来てくれた妻に、感謝を伝えよう。

明日が退院日だから、明日まで自分も褒めよう。

夜はずーみーさんがインスタライブをやっていたので、見に行かせてもらった。

退院後、改めて会って、改めて感謝を伝えたい。

思いに耽って夜更かししようとしたが、22時過ぎには寝た。4ヶ月の身体学習は伊達じゃない。

9月20日
入院から126日、発症から139日。

307号室

22時過ぎに寝て5時過ぎに起きた。
4ヶ月の身体学習は伊達じゃない。

昨日の内にほとんどの荷物は片付けてあった。朝のルーティンの筋トレとストレッチをして、ベッド周りを綺麗にした。

最後の朝食を食べた。油揚げと野菜を炒めた物と味噌汁とコアコアヨーグルト。

昔だったら絶対に食べないラインナップだが、家に帰ったらコアコアヨーグルトや名古屋牛乳が恋しくなりそうだ。

テーブルの席の患者さんにも挨拶をした。近いので見舞いに来ようと思う。

千葉の患者さんにも挨拶した。スマホの使い方を忘れてしまって、ウマ娘が死ぬほどデータを食って困っているらしい。そして大谷翔平の6安打3本塁打に本気で感動していた。すごい。

もしかして僕のメンタルは最弱の部類だったのではと思った。

僕と同じように歩いて退院しますよ、と言っていた。症状や回復は人によって全く違うが、この人ならやってくれそうだ。

なんとなく、幽☆遊☆白書の最後の方、主要キャラを押しのけて煙鬼がトーナメントで優勝したのを思い出した。

部屋に帰ると担当STさんが来てくれた。スキップの上手なSTさん。

外来リハビリでは、無理を言ってこのまま担当STさんに診てもらう予定だ。このSTさんは賢い人だが、隙を見せてくれる所がとても尊敬できる。

今ではnoteもチェックしてもらってるので、言語療法としてこの先も見ててもらおうと勝手に思っている。

言葉が上手に出なくて、何も覚えられなくて、手も動かない、歩けないと泣いていた患者は、4ヶ月後noteでふざけている。

病前の僕を知っている人ならわかると思うが、最近noteは、僕らしい言葉選びや考え方がかなり戻ってきていると思う。

担当STさんをはじめとしてチームの皆様のおかげだ。ありがとうございます。

荷物を持ってナースステーションに移動したら、リハビリチームのリーダーさんも挨拶に来てくれた。僕と同い年のできる側の人だ。

偶然昨日ずーみーさんのインスタライブを見ていたらしく、僕が登場してびっくりしたらしい。

この人は自助具の件でも今後関わってくれそうな気がする。宮古島が大好きだそうなので、次行く時は恩返しさせてもらいたい。これを読んだ担当の方はぜひリーダーさんに伝えて欲しい。

Amazonで買って部屋で使っていたミラーセラピーセットはリーダーさんに頼んで寄付させてもらった。

人生の中で1.2を争うほど、割高感が強かった。

その後は手続きが終わるまで、いつもの畳のベンチに座っていた。

9時頃になるとセラピストさん、看護師さん、介護士さんが、所狭しと歩き回る。

ほとんどの人が足を止めて、おめでとうございます。と言ってくれた。

これからが本番なことはわかっているが、今は幸せな気持ちでいよう。

妻と両親、姉も病院に来てくれた。

姉は僕の好きなNIKEのスニーカーを退院祝いに用意してくれた。

前に履いていたのは白です。

僕に退院祝いを予定している方、僕はNIKEのスニーカーが欲しい。ありがとう。

看護師さんとリーダーさんに見送られながら、1階に着いた。

最後の最後で、今日休みの担当OTさんが来てくれた。とても良いNIKEのスニーカーを履いて。

担当OTさんにも外来は担当してもらうことになっていた。あと1ヶ月とはいえこの人とリハビリできるのはかなり大きい。

麻痺手でおもむろに袋を持って退院ができるのも担当OTさんと OTチームの皆さんのおかげだ。

僕は腕が最も重度だったこともあり、OTが一番コマ数も多かった。必然的に OTチームの皆さんとの時間も長かった。

それぞれのOTさん1人ずつで1000字以上書けるほど思い出深い。

中でも担当の、さっぱりして顔に出る、褒めてくれない彼は一番長く時間を共にした。

恐らく腕に関しては、僕より諦めておらず、期待してくれてたと思う。彼は、全く動かない状態から、利き手ではないにしろ生活の役に立つ、補助手にできるか考えていた。むしろその先まで考えていたかも知れない。

褒めてはくれないが、理路整然と、ちゃんとしたエビデンスに基づいてリハビリを行ってくれた。

本当は右手で手紙を書きたいと思っていたが、それは何年か先になりそうなので、最後の名前だけ右で書いた。

手紙を渡すと、お祝いの品をくれた。

打首獄門同好会のTシャツをくれた。

日本の米は世界一

なんて最高なOTなんだ。と10FEETのライブTを着ながら思った。

こうして126日の入院生活は終わった。最後は皆さんに泣かされそうだったが、泣かずに笑顔で病院を後にした。

あと4日後に外来リハビリがある。

感動的な別れの後、どんな顔で行けばいいのかわからないが、ひとまずこのTシャツを着ていくは確定している。

15分ほど車に揺られ、家に着いた。外泊や外出で何度も帰ったので、久しぶりではない。だが万感の思いだ。

僕の家は、1Fに洗面、風呂と洋室が1部屋、2FにLDK、3Fに洋室3部屋といった間取りだ。仕事で朝早く夜遅く、飲み会も多かったため1Fの洋室が僕の部屋だ。

1階の自分の部屋に入って、片付けを始める。

ウォークインクローゼットから段ボールを2つ引っ張りだして来た。

約5ヶ月前、脳出血を起こす前にやり残した、引越しの時の荷物だ。ようやく部屋を片付けることができる。

帰ってきた。

後遺症はあるが、

歩いて、
最愛の妻と
冗談を話しながら、
右手で荷物を持って、

帰ってきた。 
 


ここまでが僕の入院生活の記録です。
長い間お読みいただきまして、本当にありがとうございました。 

伝えたいことを書いておきます。
どうか最後まで見ていって下さい。

障害の当事者やその家族の方でない、
健常者の方々へ伝えさせて下さい。

僕も5月4日までそっち側でした。
皆様と同じように、
健常者であることなど意識せず、
当たり前に生きていました。

突然この病気の当事者となって、
病気の、障害の怖さを知りました。

しかし僕がそうなる前から、
どこかで誰かの5月4日があり、
その誰かも僕と同じように苦しみ、
克服したかもしれない。
今でも苦しんでるかも知れない。

当時僕は、
町で見る障害者を、
かわいそうだから助けなきゃ、
という気持ちで見てきました。

僕がまさか当事者になるなど、
微塵も考えたことはありませんでした。

この日記を見てどんな気持ちになるかは人それぞれですが、

これを見ているあなた方の中にも、
一定数これから障害を負います。

だからこそ、
健康に気を遣って下さい。
せめて血圧を毎日測って下さい。

煙草を吸うのも、
酒を飲むのも、
寝ないのも、
好きな物を毎食食べるのも、
全部やらずに脳卒中になった人を何人も見てきました。

今この瞬間に僕みたいに倒れるのはあなた自身かもしれない。

残念ながら病気も障害も0にはならない。
だから少しでも確率を下げて欲しい。

大切な人に、病気や障害の怖さを伝えて下さい。
どうかお願いします。


ここからは、病気になってから、あるいは障害を負ってしまってから僕を見る当事者の方、またはご家族の方々に対して伝えさせて下さい。

これまでの日記を見ていただくとわかる通り、
最初は気が動転して、何も考えられなくなっていました。

僕は恐らく、家族がいなかったら自死を選んでいたかもしれません。

家族が全てではないと思うので、それに代わるものが皆様にあればと願うばかりです。

もしどうしても頼れるものがない、どうしても耐えられないという方がいれば、僕でもいいです。できれば同じ病気や障害の方に連絡を取ることをおすすめします。

脳疾患は人によって症状も後遺症も違いますが、少なくとも僕自身は救われました。

InstagramやXにも多くの当事者の方が発信をしています。苦しい思いをしてるのが自分一人じゃないと思うだけでも、僕は楽になりました。

回復や後遺症は人によって違いますが、共感できる先人が必ずいるはずです。

そしてもし、どこかのタイミングで楽になることがあれば、これから同じ境遇になってしまう人を支えてあげて欲しいです。

僕は入院中、自分より上肢も下肢も動く人に、見たくないから早く退院すればいいのにと思っていた時がありました。

後で知りましたが、その方は重い高次脳障害があり、複数の目に見えない障害を抱えていました。

なので回復や後遺症で人と比べず、
精神的な部分と、
自主トレや申請関係などの実用的な部分で人と繋がることをおすすめします。

一人で向き合うととても太刀打ちできないので、どうか人を頼って下さい。

僕もその手助けができたら、
先人への恩返しと、
自分の存在価値を確認できると思っています。

がんばって下さいなどと言うつもりはありません。

人を頼って下さい。どうかお願いします。


本当に長くなりましたが、これが僕の伝えたかったことです。

今後僕の社会復帰編を発信するかはわかりませんが、どこかで僕の名前を見たら生きてるんだ、と思ってくれたら幸いです。

半吉の、万吉の日記を読んでいただき誠にありがとうございました。

それではまたお会いしましょう。

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